2010年、森戸町の利根水郷ライン沿いに『猿田彦大神上陸之地』碑が建立されました。「伊勢の国を治めていた国津神の猿田彦は、天津神の邇邇芸(ニニギ)に国譲りし、伊勢の二見ヶ浦を出港、御船石に乗って海を渡り、下総の国の鳥見(トミ)の入江から上陸した」という伝説に基いています。
 伊勢の二見ヶ浦は伊勢湾の出口、港を出ればそこは遠州灘で、黒潮に乗れます。ここから、潮目を見ながら銚子へ至り、当時の香取海(カトリノウミ)の入江に入って、鳥見浦(森戸町に隣接する、今の富川町か)に上陸したとすれば、2千年以上前でも、それ程の日数は掛からなかったと思われます。
 「鳥見」の名称は、国津神の長髄(ナガスネ)彦=登美(トミ)毘古が、邇邇芸に先行する天津神の饒速日(ニギハヤヒ)と共に治めていた鳥見国(河内~生駒)に由来します。

 2千年ほど前には、利根川下流の常陸・下総の一帯は、香取海と呼ばれる大きな入江になっていました。紀伊半島を出発し黒潮に乗ってこの入江に着いた猿田彦の一行は、香取・鹿嶋辺りの岸辺や、当時は半島として海に張り出していた行方(ナメカタ)に上陸したと見え、今も銚子市と鹿嶋市に猿田の地名があり、周辺に猿田氏が住んでいます。

 大化の改新の詔勅では、国造(クニノミヤツコ)を廃して国司(コクシ)を派遣することになっています。国造は一つの郡の郡司としての地位に落とされて名誉職的な称号に過ぎなくなりましたが、「神郡」とされて国造の実質的な支配を認められた郡がありました。意宇(オウ)(東部出雲)、飯野(伊勢斎宮)、度合(ワタライ)(伊勢斎宮)、多気(タキ)(伊勢斎宮)、安房(上総)、香取(下総)、鹿嶋(常陸)、名草(紀伊)、宗形(筑紫)の九郡です。

 記紀の神代巻は、これらの地域の神話・伝承を集めてアマテラスを頂点とする神話体系に組み込みました。後には中央から、神(ミワ)氏、中臣氏、忌部(インベ)氏などの神官が送り込まれて、国造はその宰領に服することになりました。
 阿波(アワ)から安房(アワ)に移り、房総の由来となった「麻=総(フサ)(麻の古語)=房」の栽培を伝えた忌部氏の氏神を祀る大麻比古(オウマヒコ)神社の甘南備山=大麻山の祭神は猿田彦で、「猿=申」、示編をつければ「」になります。

 鈴鹿市には、ともに「伊勢一の宮」を名乗る、『椿大神社(ツバキオオカミヤシロ)』と『都波岐(ツバキ)神社』があり、また、伊勢神宮の内宮近くに『猿田彦神社』があります。いづれも、「伊勢の地主神」とされる猿田彦を祀ります。垂仁27年(BC3年)開創の『椿大神社』には、猿田彦の墓とされる前方後円墳があります。
 同じく垂仁27年(BC3年)、伊勢の皇大神宮鎮座にあたって奉仕したのが、猿田彦大神を祖神とする太田命で、以来、伊勢神宮と密接な関係にあります。太田命は、伊勢の『猿田彦神社』に祀られ、『古事記』の編纂で知られる多安万侶(オオノヤスマロ)の祖先です。
 
SarutahikoLine20120222 194055 JR総武線「猿田」駅前の『猿田神社』は、房総で最も古い垂仁25年(BC5年)の創祀と伝わり、猿田彦大神天鈿目(アメノウズメ)菊理媛(ククリヒメ)を祀ります。頼朝や家康など武家の尊崇を受け、江戸期には「海上郡中総鎮守・猿田山権現」と呼ばれ、上総・下総・常陸に亘る476ヶ村の総氏神として崇敬され、菅原道真を描いた葛飾北斎の絵馬も奉納されています。

 三間社流造・檜皮葺(ヒワダブキ)屋根の本殿は、延宝8(1680)年建立で、桃山時代の特色がよく表わされており、千葉県の重要文化財に指定されています。  銚子市内では、外川町の大杉神社や高神西町の渡海神社猿田彦を祀ります。庚申塚が150~200基も集中する高神西町の都波岐神社も、由緒を喪失してはいますが、鈴鹿の伊勢一の宮都波岐神社を勧請したと思われ、庚申信仰(=猿田彦信仰)の強さから見ても、祭神は猿田彦と見做されます。
  右上のGoogle航空写真をダブルクリックすると、神社や「猿田彦大神上陸地」が見えます。