国道152号を行く (2)

国道152号で中央構造線と秋葉街道を辿る (2)
                                                    ≪ (1)からの続き ≫
 
中尾座1_20080520Ed 川を隔てた東側には中尾の集落が広がる筈ですが、国道からは木々に遮られて見えません。
 この集落には、農村歌舞伎の「中尾歌舞伎」があり、今秋の興行は11月にあるそうです。1990年に完成した「中尾座」の柿葺落(コケラオトシ)には、十二代目 市川團十郎を呼んだそうです。
 戦争で一旦は途絶えたものの、40年後に復活した中尾歌舞伎は、若者がお年寄りの指導を受けて継承し、伊那市の無形民俗文化財に指定されています。                             
 陽の落ちた山道で、運転者はカーナビを、それ以外のスタッフは自車の       <図19.中尾の中尾座>       ライトに浮かび上がる道路標識を、それぞれ頼りにしていました。
 中尾の集落を過ぎると、一旦集落は途絶え、大規模な川砂採取場が現れます。それを過ぎると「チェーン着脱場」があり、ここから先の急な傾斜を予想させます。因みに、ここの標高は874mで、高遠公園下から119m登ったことになります。

秋葉街道1車線_大花沢付近 次に現れたのは市野瀬の集落で、国道の西側にあります。国道沿いには、「伊那里体育館」と「ゼロ磁場の宿 入野谷」があります。
 この宿は「分杭峠に最も近い(5㎞)」と言われており、分杭峠が「ゼロ磁場のパワー・スポット」として持て囃された頃に出来たようです。因みに、「ゼロ磁場」は地球物理とは関係なく、飽く迄もスピリチュアルなものだそうです。
 市野瀬の集落の中を、秋葉古道が通っています。この道沿いに、郵便局もJAもあります。国道152号は、集落をバイパスして、三峰川沿いを進みます。

  <図20.橋を渡る1車線の国道152号>     市野瀬の集落を過ぎる手前で、三峰川は、赤石山系に向けて東へ曲がり、国道は三峰川の支流=粟沢川に沿って南進します。
 国道の東側、粟沢川に掛かる橋を渡り、三峰川沿いを進むのは、県道212号「杉島市野瀬線」で、杉島~浦に到達します。
杉島宇津木薬師2Ed 杉島の集落には、西国三十三観音「宇津木薬師堂」があり、行基が長谷の十蔵山(戸倉山、1,681m、駒ケ根市)ウツギの木に薬師如来(丈40cm)を彫り、坂上田村麻呂が戦勝御礼としてこの地に薬師堂を建立したと伝わります。古文書にも、「山中の堂にはめづらしき丁寧の普請なり」とある通り、素晴らしい建築が目を惹きます。
 奥に隣接する無住の報恩寺に縁故があり、2012年4月15日には、三十三年に一度の御開帳がありました。今でも、山の斜面に数戸が点在する集落ですが、次の2044年の御開帳が無事行われることを、祈らずにはいられません。                                                             <図21.杉島の宇津木薬師堂                                             
 県道212号で最も奥まった浦の集落は、往古には「壇ノ浦」と自称し、今に続く平家の落人部落として知られます。平清盛の嫡男=重盛(小松殿)隠遁の地と伝えられ、重盛の墓があり、今も毎年、慰霊祭をしているそうで、ここの住人の姓には小松さんが多いそうです。
 浦集落の先にも三峰川が続いていますが、県道ではなく、「前浦林道」で分杭峠に繋がります。

 国道を南進すると、「この先  分杭峠 大型車両(ホイール・ベース5m以上) 通り抜けできません 伊那建設事務所」という看板が登場。 間もなくセンター・ラインが消え、道幅は1.5~1車線になります。
 やがて、国道標識のポールに付随する地名標識「伊那市 粟沢」が現れ、粟沢集落の僅かな人家が見えます。
#152のヘアピンカーブEd 狭くなった国道に、一旦、センター・ラインが現れ、東側に「シャトル・バス発着所」が現れます。3月後半~11月後半、シャトル・バスが「分杭峠」に乗客を運んでいます。
 その直ぐ先に「冬季閉鎖ゲート」があります。因みに、ここの標高は997mで、チェーン着脱場から123m登ったことになります。

 バス発着所を過ぎると、国道は再び1車線になり、粟沢川の谷間が狭まり、崖上の樹木が道に被さって来ます。更に進むと「行き止まり」標識      <図22.国道152号のヘアピン・カーブ>     が現れ、手前の足元には、上段に「秋葉神社」・下段に「高遠」と記した木製の古い標識があります。
 秋葉古道は、粟沢川沿いを、ここから「分杭峠」に急坂で直登して いたと思われますが、今では砂防ダムで塞がれています。
中沢峠Ed 一方、国道はここ迄、ほぼ真直ぐに南進していましたが、ここからは粟沢川から離れ、ヘアピン・カーブで右に180度反転し、「中沢峠」に向かって登ります。次々に現れるヘアピン・カーブと、その間を繋ぐ九十九(ツヅラ)折れ、”峠道”の面目躍如といったところです。
 最早、人家も在りません。カーナビだけは受信できていますが、携帯電話は先程から通じなくなっています。
 ヘアピン・カーブを4回曲がると、駒ケ根市との境界線上の分岐=県道49号があります。この位置に、国道標識のポールに付随した地名標識「中沢峠」があり、この峠の頂上で標高1,317mです。冬季閉鎖ゲートから312m登  <図23.中沢峠の標識と熊出没注意の看板>ってきました。足元の看板は「熊出没注意」です。

 中沢峠付近に端を発し伊那山地の西面を下る新宮川(シグガワ)は、深い谷を刻んで西流し、天竜川に注いでいます。伊那谷の竜東地域では、新宮川が運び出した砂礫が特異な扇状地起源の台地を作り、その上に駒ケ根市中沢の中心集落が開け、比較的多くの人口を抱えています。
 中沢峠~高遠間の国道152号を行き来する車の中には、中沢集落から県道49号を通って来た車があります。

分杭峠Ed 中沢峠の少し手前から、粟沢川の深い谷に向かって東側の視界が開けます。西側は伊那山地の山腹を切った高い擁壁が続き、国道は依然として1車線ですが、中沢峠の標識によれば、あと1.3kmで分杭峠です。
 分杭峠が近づくと、国道の東側、1段下がった位置に、シャトル・バス発着所やトイレがあり、一般乗用車は駐車禁止になっています。
 カーブの手前に、国道標識のポールに付随した地名標              <図24.分杭峠の前浦林道への分岐>          識「分杭峠」が現れ、その脇に、車両通行止めの未舗装道路「前浦林道」の峠側入口があります。
分杭峠碑Ed 赤いゲートが開いており、冬季は閉鎖されることが分かります。ここを少し下ると、ゼロ磁場のパワースポットを訪れる観光客向けの「気場」と「水汲み場」があるようです。
 前浦林道は、先述の浦集落から続いていましたが、途中の土砂崩れによって、現在は到達できないそうです。
 前浦林道入口の手前に、人の背丈ほどの『従是北(コレヨリキタ) 高遠領』と刻まれた石柱があります。脇の看板が標高1,424mを示しています。中沢峠から103m、伊那市駅から769m登って来ました。伊那市駅から29.5kmで、53分掛かりました。                                         <図25.「従是北 高遠領」の石柱>
秋葉古道碑2Ed  国道152号のカーブを曲がると、切通しの先に、伊那市と大鹿村の境界があります。
 ここに、秋葉古道への分岐を示す標識があります。この先の道の険しさを示すかのように、「自己責任にて古道歩きを楽しんで下さい」との但し書きが付随しています。古道は、ここから、小渋川の支流=鹿塩川に向けて、分杭峠の東斜面を下って行きます。
 国道は、ヘアピン・カーブを曲がる時に、伊那山地に端を発して東流する鹿塩川の最上流付近を渡り、右に迂回します。その道が戻り始めるところで再度、鹿塩      < 図26.秋葉古道の標識>     川を渡り、それからは、この川を西側に見乍ら、川に沿って坂道を南に下って行きます。
 分杭峠で中央構造線から外た国道が、ここで元に戻りました。
 国道標識のポールに付随した地名標識「大鹿村 北川」がある位置で、東の山から下りて来た道が国道に合流します。入口が通行止めになっていますが、先程の秋葉古道かもしれません。もしそうなら、粟沢川の砂防ダムを迂回しつつ、分杭峠の中央構造線を通って来たのでしょうか?
 
秋葉街道1車線_分杭峠付近Ed 道幅は路肩のない1車線、路面もやや荒れています。 
 それでも、カーブの外側や橋の両側には、必ずガード・レールが設置されています。沢に掛かる小さな橋の欄干手前には、両端ないし対角線位置に、デリネータ(夜間誘導標)が立っています。           
  学生時代に、夜分、松原湖から茅野へ下る道を通った頃に比べれば、随分と改善されていると思いました。

 一時的にセンター・ラインが現れた時があり、そこで路線バスと擦れ違いまし た。なんという幸運かと、胸を撫で下ろしました。                <図27.退避エリア&デリネータ付きの橋>    
 退避エリアが滅多にないのは、地形的に致し方ないのでしょう。幸いにも、対向車とすれ違ったのは1回だけでした。
 自車のライトだけが頼りの、明りのない夜道で、ブラインド・カーブが続く時、土地勘のない私たちは緊張の連続で、気が付けば皆、無口になっていました。後から考えれば、夜だからこそ、対向車が1台だけだったのかも知れません。

【注】 日没後の国道に関する画像に限り、後日、Google Street View でトレースしたものです。

 文責 :  南アルプスJGN全国大会に参加したHP&ブログの担当スタッフ  in  銚子ジオパーク推進市民の会

                                                  ≪ (3)に続く ≫                   
 

国道152号を行く (1)

国道152号で中央構造線と秋葉街道を辿る  (1)
                               
南アルプスJGN全国大会_参加報告』よりの続き

 2014年度の日本ジオパーク・ネットワーク全国大会の日程のうち、2日目の9月28日(日)17:00からは、各自の希望した3日目のジオツアーのために、各ジオツアーの出発点に近い宿舎に、それぞれ移動しました。
 銚子GPのスタッフは、市民の会のうち4名と推進室の3名が、「中央構造線ツアー」を希望したので、赤石山麓にある「赤石荘」を目指しました。
 2台の公用車のうち、推進室の2名が乗った普通車は、伊那IC~松川まで中央高速を使い、ダム湖の脇を抜け、大鹿村に入るルートを選びました。

いなっせ~赤石荘
<図10.Navitimeが示す国道152号ルート>
 
 推進室の1名が運転し、市民の会の4名が同乗したバンは、高遠を経由し、「国道152号」を通り、大鹿村に入るルートを選びました。出発までは、この国道がこれ程、過酷かつ興味深いご城下通りナマコ壁Ed
道とは予想だにしていませんでした。
 それは、この旅行の白眉であり、長く記憶に残るものとなりました。

 JRの「伊那市駅」前を出発、国道361号(権兵衛街道)に乗り、「天竜川」を渡ります。天竜川から東では、国道361号の呼称が「伊那街道」と変わるようです。
 「三峰川(ミブガワ)」流域に広がる高遠の城下町では、ナマコ壁が残る「ご城下通り」の風情を楽しみつつ、国道361号を東進しました。         <図11.ナマコ壁の残る高遠「ご城下通り」>
杖突街道入口Ed 「高遠郵便局」に続く製茶店の角に、「杖突街道」との交差点があります。国道152号は、高遠より北では、往古の杖突街道を、ほぼ踏襲しています。  
 杖突街道は、「藤沢川」に沿って、高遠~茅野間を結び、高遠と茅野の境界は、標高1,247mの「杖突峠」です。
 杖突街道を通って北上した「中央構造線」は、杖突峠を通る「糸魚川静岡構造線」に交差します。

  因みに、糸魚川静岡構造線は、日本海の形成を契機として出来た「フォッ<図12.交差点より杖突街道方面を望む>    サマグナ(大地溝帯)」の西縁で、親不知(糸魚川市)から諏訪湖を通って「安倍川(静岡市)」付近に至ります。
御堂垣外2Ed 杖突峠から茅野へは、このフォッサマグナを下降するため、直距離3kmにして高低差が400m以上もある急傾斜で知られます。

 往古、遠州 相良(サガラ、静岡県御前崎付近)から江戸へ塩を運んだ道は、高遠経由で杖突峠を越え、甲州街道の茅野宿を目指しました。
 旧家の並ぶ街並みを見れば、江戸時代から道幅が広かったことが分かる杖突街道ですが、現在もほぼ全区間にセンター・ラインがあり、よく整備されています。
                                   <図13.杖突街道唯一の本陣があった御堂垣外(ミドウガイト)の街並み
  東進していた国道361号は、突き当りの「高遠公園下」で終わり 、ここが国道152号との交差点です。因みに、出発点の伊那市駅の標高は643m、高遠公園下の標高は755mで、私たちは112m登ってきました。
 
美和湖+R152Ed 国道152号は、ここから南では、往古の「秋葉街道」を、ある程度、踏襲しているため、秋葉街道とも呼ばれます (以後、両者を識別するため、往古の秋葉街道を「秋葉古道」と呼称)。
 私たちも、国道152号に乗って南へ進みます。道の東側は「月蔵山
(1,192.3m)」が天然の要害となり、崖上は小彼岸桜で名高い「高遠城址公園」、手前に美術館や博物館が見えます。

 「仙丈ケ岳(3,033m、赤石山系)」の西麓を源流とする三峰川は、長谷(伊     <図14.美和湖沿いを通る国道152号>     那市)から高遠に下り、北の杖突峠から流れ下った藤沢川と高遠で合流し、伊那市役所の南西1kmで天竜川と合流します。
 三峰川は、かつて “暴れ天竜” の主因を成していましたが、「美和湖(美和ダム)」によって流量が調整されるようになりました。さらに美和湖の調整池の役割を果たしているのが、美和湖の北東側にある「高遠湖(高遠ダム)」です。  
  三峰川沿いに長く続く高遠湖と美和湖の脇を抜ける迄の国道152号は、センター・ラインのある整備された道で、周辺には普通に人家もあります。
安国禅寺Ed 美和湖と国道の間には長谷中学校があり、国道の反対側には伊那市長谷総合支所や長谷小学校があって、ここが長谷(ハセ)の集落の中心部だと分かります。道の駅「南アルプスむら長谷」は、残念ながら今日の営業を終わったところでした。
  長谷中学校の先に、チロル風のお洒落な外観を持った美和郵便局があります。
 その角を折れると「美和湖散策公園(中央構造線公園)」があります。湖畔の散策路を進めば、中央構造線の「溝口露頭」がある筈ですが、日没  <図15.諏訪梶紋と足利二つ引両紋の安国禅寺> が迫っていたので、近づけませんでした。中央構造線に沿って、約  1,500万年前に貫入したマグマが作る岩脈を、見ることができなかったのは残念です。
岡谷の横河川 因みに、中央構造線は、九州から関東へ西南日本を東西に縦断する大断層系で、この構造線を境に、北側を「内帯」、南側を「外帯」と呼びます。
 
中部地方での中央構造線は、水窪 (ミサクボ、浜松市天竜区)からは北上し、「青崩峠」~「分杭峠」~「杖突峠」を越えて、茅野の「諏訪大社上社前宮」付近(茅野市宮川安国寺地区)に達します。即ち、水窪より東の中部地方では、西側が内帯、東側が外帯に相当します。
 諏訪湖を作る断層でずらされた後、中央構造線は、12km北西の岡谷~「横河川」沿いを北上します。フォッサマグナに埋もれて見えなくなった後          <図16.岡谷の横河川>        は、下仁田(群馬県甘楽郡)で露頭が確認できます。
                
 内帯のうち最も外側にあるのが「領家帯(リョウケタイ)」で、水窪の奥領家(オクリョウケ)に由来します。外帯のうち最も内側にあるのが「三波川帯(サンバガワタイ)」で、御荷鉾山(ミカボサン、群馬県)を源流とする三波川に由来します。即ち、中央構造線では、領家帯と三波川帯とが接しています。
 領家帯も三波川帯も、基盤岩は、海洋プレートの沈み込みを契機にしてアジア大陸に付加された「付加体」です。領家帯はジュラ紀に、三波川帯白亜紀に、それぞれ付加された後、主として白亜紀後期に、変作用を受けました。 
 領家帯はマグマによる高温低圧型の、三波川帯は海洋プレートの沈み込みによる低温高圧型のそれぞれ異なる変作用を受けました。
 領家帯の主部は領家類で、この他に、陥入してきた花崗岩も含まれます。三波川帯の主部は三波川類で、この他に、南縁部では御荷鉾(ミカブ)緑色岩類も含まれます。 
秋葉古道碑Ed 領家帯と三波川帯ができた場所は、水平距離で60㎞、上下距離で20㎞離れていましたが、白亜紀後期以降に起きた、中央構造線の大規模な断層活動(衝上断層、左横ずれ断層etc.)によってずらされた結果、両者が接するようになりました。

 南アルプス地域では、ほぼ南北に走る中央構造線が作り出す断層の「破砕帯」を、秋葉古道が通っていました。
 破砕帯の西縁には、深い谷を刻む川が流れています。川の西側に急な崖を作るのが領家変成帯です。破砕帯の東側になだらかな崖を作るのが三波      <図17.秋葉古道の標識>       成帯です。
秋葉古道の様子Ed2 車道として作られた国道152号は、道幅の都合から、主として、川に沿った低地を走っています。
   従って、人が歩く道として作られた秋葉古道は、主として、国道152号からは見上げる高さにあったことになります。
 縄文の昔から、和田峠(下諏訪町)産の黒曜石や、遠州相良の塩が、この街道を通って運ばれたと言われています。

  美和湖を過ぎると、道の西側に「美和貯砂ダム」があって、周囲の山が浸        <図18.復活した秋葉古道(部分)>       食されやすいことが分かります。ここを過ぎ、三峰川に掛かる赤い橋を渡ると、川は国道の東側に変わります。この辺りで日没を迎えました。

 文責 :  南アルプスJGN全国大会に参加したHP&ブログの担当スタッフ  in  銚子ジオパーク推進市民の会

                                            
≪ (2)に続く ≫
 

『利根川 東遷』 による「利根水運」と銚子の興隆(下)

「利根水運」と銚子の興隆


▼ 『利根川 東遷』による利根水運と紀州人による銚子の興隆・発展

治郎右衛門の外川漁港 家康による『利根川 東遷』への着手は、江戸入府4年後の文禄3(1594)年であるが、「関ヶ原の戦い」が慶長5(1600)年、江戸幕府開府が慶長9(1604)年、幕府による「銚子湊 築港」着手が慶長14(1609)年である。
 
 この時代、浜口梧洞や崎山治郎右衛門など、紀州生まれの  ”木国人”が、銚子の産業基盤を築いた。
 醤油醸造で知られる浜口梧洞は、紀州広村から寛永16(1639)年に来銚した。
       <図12.>碕山治郎右衛門の築いた外川漁港           崎山治郎右衛門(崎山飛騨守=長尾城主の子孫、源 安久、当時は広村の地頭)は、広村・湯浅・御坊から”紀州海民”130人を引き連れ、数百艘の大船団で、明暦2(1656)年に銚し、外川漁港を築き、漁港の上に石畳の街区や「干鰯場(ホシカバ)」を造成した
 築港の石材は、要所には長崎浦から切り出した極めて堅い火成岩を、その他には波止山(ハトヤマ)から切り出した堆積岩を使った。寛文2(1662)年、私材を投じての、7年かけた工事が完成した。
 治郎右衛門は、流砂が溜まらない「潮吹き堤防」方式による外川築港や、近代漁法によって、”外川千軒大繁盛”をもたらした。

 外川での紀州海民の繁栄は、この後110年ほど続いた後、終焉を迎えることになる。その経緯を、杉浦啓次著『東国漁業の夜明けと紀州海民の活躍』から引用する:
          
外川の本浦通りEd

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 明和元(1764)年、地元高神村の名主・新右衛門と、四代・崎山治郎右衛門との間に、干鰯場論争が持ち上がった。
 
 新右衛門は、「初代・治郎右衛門が開発した干鰯場の面積は、元禄10(1697)年の自帳で10町5反歩だったものを、19年後の享保元年に19町5反歩に増加したのは、治郎右衛門が高神村の土地を、許可なく開墾して干鰯場にしたものであり、違法。」という訴訟を起こした。

 治郎右衛門は3年争った後、明和4(1767)年、代官に訴え出た。この当時は、90年余り続いた不漁期の最中で、不漁は、この後ま   <図13.>海と外川漁港へ続く坂道
だ50年も続く。長年富を誇った崎山家も、財力を失い困窮していた。     「外川千軒大繁盛」の余韻を今に残す
 初代が地元民から受けた絶大な尊敬も既に失われ、紀州人から学ぶべきものはなく、地元民の漁場を奪う   ”邪魔な旅人”と思われるように変わっていた。
 地元領主にとっても、地元漁民の気持ちを抑えてまで、紀州海民の権益を護ってやる必要はなくなっていた。

 四代・崎山治郎右衛門の起こした訴訟は、この年、敗訴になった。
 安永2(1773)年、四代・崎山治郎右衛門は、後を5代目に任せて、紀州へ戻って行った。
  
 残された5代・治郎右衛門は、三崎の豪農・江畑三郎衛門の分家となり、農家になった。この後は、江畑姓を名乗るようになる。この頃、“紀州海民”は、外川に残る者もあったが、多くは三崎・名洗・小畑方面に移住した。
 彼らの子孫は、現在の「銚子木国会」の会員として、【銚子】市の経済界を担っている。
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 一方、幕府は、元禄3(1690)年、インフラとなる“津出し河岸”(船着き場)を設定して、「利根舟運」隆盛の礎を築いた。
 『利根川 東遷』の完成が1654年であり、その二年後に崎山治郎右衛門が来銚しているのは興味深い。
 
 家康が江戸入府した1590年、五井(遠州三河)松平家の松平 伊昌(コレマサ)が、下総国銚子の飯沼に、二千石を賜った。伊昌の子=忠実(タダザネ)の下で、徳川 家康の差配により、1609年に「銚子湊 築港」に着手した。
 約百年後の元禄11(1698)年の遠州移封まで、五井松平家が治めた後、【銚子】は幕府直轄領となった。
 その後、安永6(1777)年から幕末まで、【銚子】は、大河内松平家の高崎藩領五千石となった。周辺は、ほぼ幕府直轄領であった。
 これを見ても、【銚子】は江戸幕府にとって重要な地域と位置づけられていたことが分る。

幕末海上郡内領主区分図Ed
 <図14.幕末海上郡内領主区分図>
【凡例:=陣屋所在地、暗緑色&
緑色=高崎藩領、桃色=幕府直轄領、灰色=小見川藩領(忍町のみ)
橙色=生実(オユミ)藩領、赤色=佐倉藩領水色=安中藩領】 ワンクリックで拡大画面起動
忍町は、銚子で唯一の小見川藩領 。小見川藩は、文禄3(1594年、平家忠忍藩から移封されて立藩した。 

 「利根水運」では、当初、「水路輸送の荷物」は、江戸幕府の年貢米・東北諸藩の城米などが主であった。
 後年、醤油醸造にとって必須の原料である大豆・小麦・塩、醤油などの醸造品、沿岸漁業による干鰯(当時急速に普及した木綿の肥料)・〆粕・魚油(照明に必須)などの「商品荷物」にも拡大し、銚子産業発展の礎となった。 

 明治23(1890)年、オランダ人ムルデル設計の「利根運河」開通で、銚子-両国間20時間の汽船航路を開設した。
利根運河
<図15.> 「利根運河」経路図_利根川(柏市船戸)と江戸川(流山市深井新田)を結ぶ
〔出典: 柏市広報:「歴史発見」第12回「明治23年3月25日利根運河、営業運転開始」、平成25年発行〕
 
 運河通行は、翌24年の37,600隻を最高に、昭和12(1937)年には6,500隻と、一日僅か18隻にまで減少した。
 明治30(1890)年、銚子-本所間を5時間で運行する「総武鉄道」の開通に伴い、次第に、運河が陸上交通網によって代替されるようになった。
 それまでの数百年間、江戸の台所【銚子】から江戸・東京への物流幹線の役割を担うのは、『利根川水運』であった。
 結果として、江戸・東京からの文人墨客の周遊などを通して、人的・文化的な交流を可能としたことは、論をまたない。「文人墨客の銚子文学碑」も、貴重なジオパーク遺産である。

 それでは、『利根川 東遷』の前後での【銚子】の状況はどう変化したか、数少ない資料に基づいて記してみよう。

 ある資料によると、『利根川 東遷』に着手の前年、文禄2(1593)年に27軒だった銚子湊(飯貝根?)は、『利根川  東遷』完成60年後の承応3(1654)年には68軒との記述がある。
 一に、幕府による1609年「銚子湊 築港」と1690年の「津出し河岸」設定で、後の「利根水運 興隆」の基礎が築かれたこと。
 二に、江戸の外港としての銚子の有望性を見抜き、紀州から移住(?)した浜口梧洞・碕山治郎右衛門など、紀州人による「産業振興」の基礎が築かれたこと。
 これらが相乗効果をもたらした結果、江戸末期の【銚子】は、関東では江戸・水戸に次ぐ大都市となった。

 私達の故郷【銚子】が、どのように発展して来たのかについて、「ジオパーク」との関連で見てみよう。

 「銚子ジオパーク」のキャッチフレーズ=「太平洋に突き出た大地の右腕」をなす地形の影響を受けて、【銚子】沖は暖流と寒流の接点に位置し、大量のプランクトンが発生する。
 『紀州人の知恵』は、この海流の利を生かした漁業や、温暖で高湿な海洋性気候による醸造業などで、ジオの恵みを引き出した。
 伊奈 忠次の「先見性・計画性」と徳川家康の英断、それを実現した伊奈一族による200年に亘る『利根川 東遷』は、地理的優位性をもたらし、それを活用した人々による『利根舟運の隆盛』があった。

 【銚子】の発展は、ジオの災いを抑え、ジオの恵みを引き出した、先人たちの知恵に支えられている、と言ってもよいのではないか。 

 (下)文責 : 椿 敬一郎 (補筆と画像提供 : HP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会)
 


 


 

 
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