磯見川水系の古代と山陰海岸古代の外洋船団(その2)

  また、この古墳の150mほど北東側にあるのが『大久保遺跡』で、先述(その1)の資料によれば、縄文中期~後期の縄文土器、弥生期の弥生土器、古墳後期~平安期の土師器や須恵器が出土したそうですが、現況は宅地+畑+神社+山林です。
 さらに、八木寺内青年館の南東約120mにあるのが『榎木内(エノキウチ)遺跡』で、上記の資料によれば、縄文後期の縄文土器や、古墳後期~平安期の土師器が出土したそうですが、現況は宅地+畑+山林です。
 一方、国道の北側、防衛省技術研究本部飯岡支所と第八中学とを結ぶ線上のほぼ中間点にあるのが『目出倉(メデクラ)遺跡』で、上記の資料によれば、縄文中期の縄文土器や、古墳後期~平安期の土師器が出土したそうですが、現況は畑+山林です。

 古墳後期~平安期には八木氏がこの地を治めており、八木造(ヤギノミヤツコ)と呼ばれていました。「八祖」は八木氏の祖先を意味し、古墳は八木氏の祖先の墓、遺跡出土の土師器は八木氏一族が使用したものでしょう。「アソ神社」すなわち「八祖神社」の奉斎氏族は八木氏でしょう。

 『
千葉県神社名鑑』では、「銚子市八木町の阿蘇大神祭神は阿曾(アソツヒコ)健磐龍(タケイワタツ)で、例祭は旧2月1日。景行天皇紀40年日本武尊と下った八木連が創建したらしい」とあります。今では過疎化して、毎年の例祭も行われなくなり、地元に神社の由緒を知る人も少ないようです。地元の銚子市立第八中学校も、2013年3月で閉校します。残念なことです。今となっては、この地に、八木町という地名が末永く残ることを祈るばかりです。

 平清盛の異父兄弟の平頼盛の孫に八木盛定・平川景家がいます。『新撰姓氏録』によれば、八木氏は、和多罪豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)の児神、留多摩(フルタマ)の後裔とされます。ここで思い出されるのは、振魂(フルタマ)命に関わる渦海(ウヅミ)の伝承です。

 古代、海人系の渦海は、自らの祖神を海津見(ウツミ、ワタツミ)、綿津見(ワタツミ)ないし綿積(ワタツミ)と呼んでいました。八木氏は、海神・綿積豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)の子、振魂(フルタマ)の孫・椎根津彦命(シイネツヒコ)の弟・八玉彦(ヤタマヒコ)の後裔という説があります。
 旭市八木に隣接する、旭市上永井の西部の小高い台地上に『海津見(ウツミ)神社遺跡』があります。上記の資料によれば、ここには古墳期の円墳と縄文期~古墳期の遺跡があり、縄文期の縄文土器や、古墳期の土師器が出土したそうですが、現況は畑で、一部消滅しています。
 この山を甘南備(カンナビ)としているのが、南に隣接する旭市下永井の『海津見(ウツミ)神社』です。
 また、高神西町の『渡海(トカイ)神社』は、大綿津見命(オオワダツミノミコト)を祭神として、709年に創建されたと伝わります。
 これらを見ると、今では薄らいでいるとはいえ、三方を水域(海・海・大河)に囲まれた銚子とその隣接地域には、海人系・渦海族の影が射しているのが分かります。

磯見川水系の古代と山陰海岸古代の外洋船団 (その1)

  Yagimachi_20120208 05042磯見川水系は、下総台地を流れ、崩壊した通漣洞辺りで太平洋に注いでいます。
 縄文から中世までの下総台地(銚子を含む)においては、東部よりも、この磯見川水系の台地上で文化が発達していたことが、今も残る遺跡群から窺われます。その典型が「八木」と名のつく地域です。左のGoogle航空写真をダブルクリックすると、古墳や遺跡の位置が分かります。

 国道126号の坂を飯岡側から登っていく時、左手の台地上に『御嶽神社』『阿弥陀院』『熊野神社』と、神社仏閣が続きます。この辺りは旭市八木です。
 この坂を登りきった辺りに『東光院』があります。近くの国道沿いに豊岡小や第八中学もあり、ここが銚子市八木町の中心部をなしています。
 国道から東光院へと入る道の東側は八祖大塚という地区で、東光院の手前に「八木八祖野菜集出荷所」が、東光院と地続きの国道側に「八祖蔬菜出荷組合」があります。「八祖」という名前は僅かに、ここに残るのみです。

 南側の旭市上永井と銚子市八木町を隔てる崖線より北側の台地のうち、東光院と地続きになった高所の南端部には、2つの重要なスポットがあります。
 一つ目は『アソ神社』で、東光院のほぼ真南に位置します。九州の阿蘇山麓に鎮座する肥後一宮の『阿蘇神社』に由来すると思われます。

 二つ目は『八祖大塚古墳』で、アソ神社の東約150mにあり、径12m×高さ2mの円墳で、「千葉県文化財地図1998」によると、この古墳は古墳時代後期に属するそうですが、現況は古墳のマウンド上に大根栽培のトンネルが並んでいます。

伊勢・鈴鹿から香取・鹿嶋の入江まで、猿田彦ライン(その2)

 香取(銚子)の『猿田神社』が垂仁25年(BC5年)鈴鹿の『椿大神社』が2年後の垂仁27年(BC3年)にそれぞれ建立され、伊勢の『皇大神宮』鎮座も垂仁27年(BC3年)だったという伝承は興味深く、鉱物資源の豊かな伊勢の国を新興勢力に譲らされて、居場所を失った猿田氏一族が、新天地を香取・鹿嶋に求めたことを表わしています。

 『伊勢国風土記』逸文によると、神風の伊勢の国」の由来となった伊勢津彦(イセツヒコ)は、神武天皇の武将・天日別(アヒワケ)に国を追われました。天日別命は、伊勢外宮の祀官・度会(ワタライ)氏の祖神です。
 伊勢津彦
の後裔・海上国造(ウナカミクニノミヤツコ)は、古代・香取海の入江に到達し、上国(オオウナカミコク)を建て、古代、香取海水上交通を制した、海人系氏族とされています。
 上国は、6世紀に中央から進出した勢力の建てた武社国によって(シモツ)海上国と上(カミツ)上国に分割され、香取海上流に印波国造が進出、さらに千葉国造匝瑳郡が建てられて、その領域を割かれたとされます。
 
海上国造本拠地は、下総国海上郡(現在の銚子市旭市)匝瑳郡(現在の匝瑳市)香取郡(現在の香取市+香取郡)とされます。
 海上国造は、上国の猿田神社において、祖神である猿田彦大神を祀ったとされます。猿田神社神主家は、海上国造家の出で、代々、猿田姓を名乗ってきたと伝わります。

 猿田という姓は、全国的には、広島市佐伯区五日市に、例外的に集中しています。鉱物資源の豊かな常陸国では、『常陸風土記』に「山のサヘキ、野のサヘキ」と記述された鉱山技師系の佐伯氏が、新興勢力に「土蜘蛛」と名付けられて討伐され、残党が、奈良~平安前期に西国(日向・備後・越中など)に強制移住させられたと伝わります。猿田氏も、佐伯氏とともに移住させられたのでしょうか?

 佐伯氏猿田氏も、次々に、自分が開発した土地を追われているように見えます。まるで、白樺派の作家・長與善郎の『青銅の基督』を思い起こさせる光景です。権力を持たないエンジニアの悲哀のようなものが伝わります。
 因みに、真言宗の始祖で、仏教だけでなく鉱山技師系のノウハウに強かった讃岐出身の空海も、幼名を佐伯真魚(サエキノマオ)といい、佐伯氏の出自です。その聡明さには、今も学ぶところ大です。
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