2011年10月

豊里と猿田と清郷を結ぶ二等辺三角形(その1)

IwaiHudoyamaMaped20120210 大津波など初めから無縁そうに、海辺からやや奥まった処で高く競り上がった飯岡の下総台地の上、猿田の南東の山側の水源池付近では、旭市と銚子市が非常に入り組んでいますが、平面上の距離では、この辺は隣接しています。

 銚子市の西端・JR成田線の「豊里」と、ここより東方・JR総武線の「猿田」を結ぶ線を、底辺とする二等辺三角形を南向きに描くと、頂点は旭市の清郷辺りになります(左のGoogle航空写真はダブルクリックで拡大)。
  旭市清郷は、『海上郡誌』の海上郡滝郷村清瀧に対応します。

 標高があるために、この付近には空自の岩井無線中継所があります。
 無線中継所に最寄りのJR総武線の駅は、「倉橋」駅になります。

 「倉橋」の名は、上総層群・倉橋層で知られており、上総層群の中で、最下位が名洗層、最上位を豊里層、最上位の直ぐ下が倉橋層で、この下に、下から順に、春日層・小浜層・横根層の3層があり、犬吠層群の飯岡層に対応します。以後、ここでは、上総層群の春日層・小浜層・横根層の3層を、便宜的に飯岡層と呼びます。

 飯岡層・倉橋層・豊里層は、ほぼ平行に北西に向かって緩く傾斜し、豊里層の上を香取層が不整合に覆います。
 凝灰質泥岩の飯岡層以外は、砂質の透水層なので、地下水は倉橋層に滞留し、下総台地の傾斜に沿って、その辺縁に向かい、飯岡層の上面から湧出します。

 無線中継所の近くに『岩井の不動滝山』(左上写真内の赤い吹き出しのAマーク)があり、明治初年の廃仏毀釈の際、神仏習合の『龍福寺』(真言宗智山派)(3.nifty.com/f-shima/bouso/unakami.html)が残って、『岩井不動尊』の建物は廃棄されたものの、「不動滝」は健在です。かつては四十七滝と言われましたが、現在は、弘法大師由来の「独鈷の滝」、「大滝」、最も流量の多い「奥の院」の三つが残っています。

 「独鈷の滝」(http://www.city.asahi.lg.jp/kanko/002_05.html)の真下で、「倶利迦羅不動尊」と「不動明王」の2つの石像が、往時の不動信仰における「滝行」を忍ばせます。
 滝のある谷は、北西に緩く傾いた平坦な下総台地の、上面を削り込んだ浸蝕谷で、その谷の東斜面から湧く大量の地下水が、滝の水源です。 
 初夏には、「奥の院」と「大滝」付近で、ゲンジボタルが飛び交う様子が見られ、最近はパワースポットとしても人気です。

磯見川水系の古代と山陰海岸古代の外洋船団(その4)

 豊岡市の「コウノトリ但馬空港」から東南東に数kmのところ、但馬地方の中央を日本海に向かって北に流れる円山川の支流・出石(イズシ)川のさらに支流・袴狭(ハカザ)川沿いの標高約5~10mの低湿な沖積平野に、『袴狭遺跡』が広がっています。袴狭遺跡からは、奈良~平安期の木製品・木製祭祀具が多数出土し、『秦』の字の書かれた土器も発見されました。
 1989年、袴狭遺跡から、4世紀のものと思われる、2m弱の線刻画の杉板木製の舟が出土しました。リアルな線刻画は、大型船とそれを囲む中小船十四隻からなる船団が外洋を航行する様子を描いています。舟はいずれも、舳先(ヘサキ)が高く迫り上がった外洋船です。

 出石町は、日本海からかなり内陸にありますが、かつての但馬国出石は入り江が深く、川幅も今の3倍ありました。出石川に沿って深く入り込んだ地形を利用して、大きな舟が入り込める良港を作り、後背地の硫化鉄鉱・銅・銀・金などの鉱脈も手伝って、鉱工業が栄え、海外貿易を盛んにしたと思われます。

 丸山川支流・八木川沿いの養父(ヤブ)市八鹿(ヨウカ)町八木と丸山川湾曲点の朝来(アサゴ)市和田山の双方にある、『赤淵神社』の主祭神は大海(オホシアマ)龍王神で、奉斎氏族は八木氏です。
 八木氏と同祖の日下部氏の祖先・孝徳天皇の皇子・表米宿禰(ウワヨネノスクネ)命が率いる数千隻の軍船が、大化元(645)年、丹後・白糸浜に来襲した新羅の海賊を討伐の際、大海(オホシアマ)龍王神が現われて、皇子軍の危機を救ったと伝わります。海人系氏族らしい日下部氏の伝承です。
 
 鎌倉から織豊期にかけて、但馬八木氏は、但馬国養父郡八木荘の八木城にあって、十五代三百余年に亘って同地に勢力を振るいました。
 越前・一乗谷の戦国武将・朝倉氏も、上記の古代豪族・日下部氏の出自で、子孫が八木氏を名乗っています。朝倉氏も但馬八木氏も、家紋は「三つ盛木瓜」です。
 その後の但馬八木氏は、一旦は豊臣氏に滅ぼされたものの、関ケ原では徳川方について復活し、江戸期には幕府の旗本として但馬守(タジマノカミ)を名乗っていました。

磯見川水系の古代と山陰海岸古代の外洋船団(その3)

 この記事の「・・・(その1)」で記述した千葉八木氏と同族の但馬八木氏は、但馬国造(タジマノクニノミヤツコ)となって但馬国(現・兵庫県北部)を治め、八木宿禰(ヤギノスクネ)と呼ばれていました。
 因みに宿禰とは、天武天皇が制定した八色姓(ヤクサノカバネ)の第三位に当る「神別氏族」の尊称です。八木氏は、神別氏族の中でも「国つ神」に分類されています。

 千葉八木氏の祖先・八玉彦(ヤタマヒコ)命の兄・椎根津彦(シイネツヒコ)命の子孫に、凡海連(オホシアマノムラジ)→海宿禰(アマノスクネ)がおり、大海人皇子(オホシアマノミコ)と呼ばれた幼少時の天武天皇を扶養した海人系氏族です。国宝『海部氏系図』を保持する『(コノ)神社』・神主家の海部(アマベ)氏は、海部直(アマベノアタイ)の直系です。凡海連は、丹波国造(タニハノクニノミヤツコ)だった海部直の弟です。
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 凡海連の領地・凡海郷(オホシアマノサト)は、由良川河口部を中心に、丹後半島の若狭湾側(現・宮津市)から大浦半島の舞鶴湾側(現・舞鶴市)で、発祥地は大浦半島北部・三浜の『三浜丸山古墳群』辺りと見做されています。
 三浜からは若狭湾内の冠島と沓島が眼前に望め、冠島に鎮座する『
老人嶋(オイトシマ)神社』は、籠神社の奥宮とされ、凡海氏の氏神です。
 この島々の大部分は丹後半島側と同じ角閃石安山岩から成り、一部に中新世の凝灰岩・凝灰角礫岩・凝灰質泥岩が露出しています。
 右のGoogle航空写真をダブルクリックすると、古墳・遺跡・神社・城址の位置が分かります。

 舞鶴湾入り口の大浦半島・浦入(ウラニュウ)湾に、縄文海進で形成された300mの砂嘴があります。この砂嘴の付け根部分にある『浦入遺跡』群は、縄文~平安期の複合遺跡です。古墳も、日本海側最古(5世紀)の鍛冶炉も、奈良~平安期の製塩遺構も、見つかりました。凡海氏は、製鉄業も製塩業もこなしていたようです。

 1998年には、ここの約5,300万年前の地層から、縄文前期のものとしては最大・最古級の、推定長8~10mの巨大な杉材の丸木舟が発見され、外洋航行も十分可能だったと推定されています。ここでは碇石や杭も見つかり、日本最古の船着き場と判断されています。

磯見川水系の古代と山陰海岸古代の外洋船団(その2)

  また、この古墳の150mほど北東側にあるのが『大久保遺跡』で、先述(その1)の資料によれば、縄文中期~後期の縄文土器、弥生期の弥生土器、古墳後期~平安期の土師器や須恵器が出土したそうですが、現況は宅地+畑+神社+山林です。
 さらに、八木寺内青年館の南東約120mにあるのが『榎木内(エノキウチ)遺跡』で、上記の資料によれば、縄文後期の縄文土器や、古墳後期~平安期の土師器が出土したそうですが、現況は宅地+畑+山林です。
 一方、国道の北側、防衛省技術研究本部飯岡支所と第八中学とを結ぶ線上のほぼ中間点にあるのが『目出倉(メデクラ)遺跡』で、上記の資料によれば、縄文中期の縄文土器や、古墳後期~平安期の土師器が出土したそうですが、現況は畑+山林です。

 古墳後期~平安期には八木氏がこの地を治めており、八木造(ヤギノミヤツコ)と呼ばれていました。「八祖」は八木氏の祖先を意味し、古墳は八木氏の祖先の墓、遺跡出土の土師器は八木氏一族が使用したものでしょう。「アソ神社」すなわち「八祖神社」の奉斎氏族は八木氏でしょう。

 『
千葉県神社名鑑』では、「銚子市八木町の阿蘇大神祭神は阿曾(アソツヒコ)健磐龍(タケイワタツ)で、例祭は旧2月1日。景行天皇紀40年日本武尊と下った八木連が創建したらしい」とあります。今では過疎化して、毎年の例祭も行われなくなり、地元に神社の由緒を知る人も少ないようです。地元の銚子市立第八中学校も、2013年3月で閉校します。残念なことです。今となっては、この地に、八木町という地名が末永く残ることを祈るばかりです。

 平清盛の異父兄弟の平頼盛の孫に八木盛定・平川景家がいます。『新撰姓氏録』によれば、八木氏は、和多罪豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)の児神、留多摩(フルタマ)の後裔とされます。ここで思い出されるのは、振魂(フルタマ)命に関わる渦海(ウヅミ)の伝承です。

 古代、海人系の渦海は、自らの祖神を海津見(ウツミ、ワタツミ)、綿津見(ワタツミ)ないし綿積(ワタツミ)と呼んでいました。八木氏は、海神・綿積豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)の子、振魂(フルタマ)の孫・椎根津彦命(シイネツヒコ)の弟・八玉彦(ヤタマヒコ)の後裔という説があります。
 旭市八木に隣接する、旭市上永井の西部の小高い台地上に『海津見(ウツミ)神社遺跡』があります。上記の資料によれば、ここには古墳期の円墳と縄文期~古墳期の遺跡があり、縄文期の縄文土器や、古墳期の土師器が出土したそうですが、現況は畑で、一部消滅しています。
 この山を甘南備(カンナビ)としているのが、南に隣接する旭市下永井の『海津見(ウツミ)神社』です。
 また、高神西町の『渡海(トカイ)神社』は、大綿津見命(オオワダツミノミコト)を祭神として、709年に創建されたと伝わります。
 これらを見ると、今では薄らいでいるとはいえ、三方を水域(海・海・大河)に囲まれた銚子とその隣接地域には、海人系・渦海族の影が射しているのが分かります。

磯見川水系の古代と山陰海岸古代の外洋船団 (その1)

  Yagimachi_20120208 05042磯見川水系は、下総台地を流れ、崩壊した通漣洞辺りで太平洋に注いでいます。
 縄文から中世までの下総台地(銚子を含む)においては、東部よりも、この磯見川水系の台地上で文化が発達していたことが、今も残る遺跡群から窺われます。その典型が「八木」と名のつく地域です。左のGoogle航空写真をダブルクリックすると、古墳や遺跡の位置が分かります。

 国道126号の坂を飯岡側から登っていく時、左手の台地上に『御嶽神社』『阿弥陀院』『熊野神社』と、神社仏閣が続きます。この辺りは旭市八木です。
 この坂を登りきった辺りに『東光院』があります。近くの国道沿いに豊岡小や第八中学もあり、ここが銚子市八木町の中心部をなしています。
 国道から東光院へと入る道の東側は八祖大塚という地区で、東光院の手前に「八木八祖野菜集出荷所」が、東光院と地続きの国道側に「八祖蔬菜出荷組合」があります。「八祖」という名前は僅かに、ここに残るのみです。

 南側の旭市上永井と銚子市八木町を隔てる崖線より北側の台地のうち、東光院と地続きになった高所の南端部には、2つの重要なスポットがあります。
 一つ目は『アソ神社』で、東光院のほぼ真南に位置します。九州の阿蘇山麓に鎮座する肥後一宮の『阿蘇神社』に由来すると思われます。

 二つ目は『八祖大塚古墳』で、アソ神社の東約150mにあり、径12m×高さ2mの円墳で、「千葉県文化財地図1998」によると、この古墳は古墳時代後期に属するそうですが、現況は古墳のマウンド上に大根栽培のトンネルが並んでいます。
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