『利根川 東遷』 

▼ 序章

 私達の故郷【銚子】が、どのように発展したのかについて、「ジオパーク」との関連に触れつつ、考えてみたいと思う。

 【銚子】の発展については、天正18(1590)年、徳川 家康の江戸入府に遡る。
 何故なら、後の「利根水運」興隆の契機は、家康の『利根川 東遷』事業による、「利根水運」ネットワークの形成にある。
 この事業は、文禄3(1594)年~承応3(1654)年の60年間に一応完成を見ており、水運難破多発の「房総沖航路」を避け、銚子から利根川利用の「内航航路」(+陸送)による、安全確保を可能にしたものである。

 これが【銚子】発展の礎を築いた事実について、以下に論を進めることとする。

 明治8(1873)年発行の『日本地誌概要』によると、関東地方の主要都市人口ランキングでは、
   ① 東京  595,905人、
   ② 横浜    64,602人、
   ③ 水戸    19,010人、
   ④ 銚子    17,688人
となっており、安政5(1858)年の「日米修好通商条約」以降に、神奈川の一寒村が僅かな時間で大発展した横浜を別とすれば、江戸末期の【銚子】は、江戸や水戸に次ぐ都市・街であったといえる。
 
 次項では、横浜ならぬ一寒村の【銚子】が、どのように発展したかについて、『利根川 東遷』から検証する。

千年前の関東の地勢図Big
<図1.> 約1,000年前(平安中期)における関東地方の地勢と印旛沼 <ワンクリックで拡大画面起動
〔出典:千葉県:「千葉県の自然誌 本編1 千葉県の自然、平成8年発行〕
 
▼ 徳川幕府における『利根川東遷』事業の概要

 家康は、秀吉から関八州を与えられて、1590年に江戸入府した。
 江戸入府の際、家康は、譜代の家臣=伊奈備前守忠次
(イナ ビゼンノカミ タダツグ)に、その生国=三河国小島(西尾市)の旧領と、小室(北足立郡伊奈町小室)、鴻巣(鴻巣市)を合わせて一万三千石の知行を与え、「関東代官頭」(後の「関東郡代」)とした。
 以後205年に亘り、伊奈家は「関東郡代」を務めた。「関東郡代」は、関東の幕府直轄領、実質約100万石を管轄していた。
伊奈忠次障子堀Ed 伊奈忠次は、小室に拠点を置き、関八州【注1】を初め全国各地の検地を指揮し、”備前検地”として知られる。
 【注1】 関八州 :相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8ヶ国。

 4年後の文禄3(1594)年、家康は、治水巧者として知られていた「関東代官頭」=伊奈忠次に、『利根川 東遷』事業を命じた。 それ以来、この大土木事業は、伊奈一族が担った。
 この事業は、家康の四男=松平忠吉が入った忍藩【注2】で、家老=小笠原吉次が命じられた利根川の水害対策を、伊奈忠次が指導したことに端を発する。
折しも、家康が江戸城下を拓く時期に当たり、譜代の
   < 図2.>忠次の小室陣屋の障子堀(埼玉県指定遺跡)   忠次は、「江戸を洪水から守ること、関東一円の治水事
    関東ローム層を巧みに掘り残して水を溜めた    業として、利根川と太日川を接続して新たな堤防工事を行うこと」などを家康に進言し、認められて工事に至ったという。 忍藩は、暴れ川として知られた利根川の氾濫に苦しめられていたことから、忠次は、利根川の水量を減らすため、渡良瀬川下流の太日川 (フトイガワ)に分流させる計画を立てた。 【注2】 武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は、”忍の浮き城”で知られる忍城(行田市)に置かれた。幕末、忍藩主松平氏は、幕府から「品川台場」(品川区台場)など東京湾の警備を命じられ、海防藩と呼ばれた。忍藩領地の埼玉北部が東京湾から離れているため、幕府は、忍藩のうち、武蔵領5万石と引き換えに、房総に5万石を給地した。忍藩は、必要な船・人足を房総領から調達し、警備に当った。

 以下の<図3>をワンクリックすると、図3を拡大した別画面が立ち上がるので、それを、ブログ画面とは別ウィンドウとして並列し、参照して頂くと、これ以降の解説が分り易くなります。(別画面を閉じる場合は、別ウィンドウの最上部右端のXマークをクリック。)
利根川東遷事業工事とその後の利根川Big
<図3.> 『利根川東遷』事業工事とその後の利根川<ワンクリックで拡大画面起動
〔出典:千葉県柏土地改良事務所:「東葛地域の田園づくり」、平成12年発行〕 

 その事業は、1594年、上川俣(羽生市)における『会の川(アイノカワ)締め切り』から開始された。 
 この工事は、それまで二又だった古利根川を、浅間川(アサマガワ)に一本化して東遷させ、川口(加須市)で旧河道に合流させると同時に、派川を東方へ開削し、太日川、即ち、今の江戸川に分流させた。伊奈忠次は、1600年の「関ヶ原の戦い」で小荷駄奉行として軍功を挙げた後、『利根川 東遷』事業に復帰した。
水戸備前堀2Ed2
 
伊奈備前守次の土木事業の方式は”伊奈流”と呼ばれている。
 それは、毎年のように起こる程度の出水に対しては、堤防によりこれを防ぎ、大洪水はむしろ堤防を越水させ、遊水池により被害を少なく抑えることにあった。この方式は、その後の幕府の基本となった。
 全国に残された”備前堀”・”備前堤”の名は、彼の治水・灌漑事業における活躍を物語っている。
 
 木曽川左岸の”備前堤”完成の翌年=慶長15(1610)年
初代=伊奈 忠次は60歳で没した。

伊奈氏屋敷跡Ed
       <図4.>伊奈忠次の備前堀(桜川と涸沼川を結ぶ農業用水)
 事業は、長らく父と行を共にした長子=忠政(タダマサ)に引き継がれた。
 2代=伊奈忠政は、「大坂夏の陣・冬の陣」における堀の埋立てなどで軍功を挙げ、また、「長柄川の堰止め工事」などに才能を発揮した。
 元和4(1618)年、伊奈忠政は34歳の若さで没した。
 事業は、忠次の次子=忠治に引き継がれた。伊奈忠治は、7千石の知行を得て、「赤山陣屋(川口市赤山)」を拠点に、『利根川 東遷』の主要部分を担った。
<図5.>伊奈氏屋敷跡(北足立郡伊奈町小室(埼玉県指定遺跡)
忠治の岡堰Ed 元和7(1621)年、『新川通 開削』と『赤堀川 初開削』によって、隅田川に注ぐ古利根川の勢いを削ぎ、江戸市街地や近郊の洪水被害を 緩和した。
 『新川通(シンカワドオリ) 開削』は、浅間川を、佐波(ザワ)(加須市)から栗橋(久喜市)まで新削し、利根川 本流を渡良瀬川に合流させた。

 『赤堀川(アカホリガワ) 初開削』は、それまで渡良瀬川の下流だった権現堂川(ゴンゲンドウガワ)分流点の栗橋から、江戸川 流頭点の関宿(セキヤ
ド)(野田市)まで、巾七間の流路を開削した。伊奈氏に因んで”備前堀”ともいう。                            <図6.>伊奈忠治が築いた岡堰(取手市 )
  寛永6(1629)年、「鬼怒川 大木丘陵 開削」によって、『鬼怒川・小貝川 分流』を行い、下妻付近で合流して暴れ川になっていた鬼怒川と小貝川を分離した。

 鬼怒川の開削水路は、常陸川合流点まで7キロ以上、大木丘陵部だけでも5キロほどあり、大工事であった。
 元の氾濫原=谷原では新田開発が進み、”谷原万石”とも称された。  寛永7(1630)年に『小貝川(コカイガワ) 付替え』を行った。
 これらによって、常陸川・広川への合流点を、開削工事の前に比べて30キロも上流に押し上げ、江戸の水運で重要な役割を果たすべく、常陸川の水量を増加させた。

 寛永12~18(1635~1641)年、『江戸川 開削』を行った。これは、平らな関東ローム台地を切り開き、関宿から金杉(野田市)までに新流路を開削し、太日川に合流した。
 寛永18(1641)年、『権現堂川 掘削・川幅拡張』によって、権現堂川は、栗橋から五霞(茨城県猿島郡)の南を流れ、関宿で江戸川に合流した。
 これにより、権現堂川から太日川を経て、江戸の内海(東京湾)に至る流路が、当時、利根川の本流となった。
利根川江戸川分岐点矢印付Ed
 <図7.>関宿城博物館の展望台から見る利根川・江戸川分岐点  【注3】
 旧赤堀川(利根川)部分、旧逆川(江戸川)部分、旧常陸川(利根川)部分  
【注3】 
『水を治め、水を利する―伊奈忠次・忠治父子の物語』(Araijuku Green Communnity 発行)の図を一部改変。
 
   承応2(1653)年、伊奈 忠治は62歳で没した。忠治が造成した福岡堰(関東三大堰の一つ)の北東、真瀬(つくば市)に、忠治の功績を称えた「伊奈神社」がある。
福岡関_伊那忠治Ed 事業は、長子=忠克(タダカツ)に引き継がれた。4代=伊奈忠克の代に、『利根川 東遷』事業は、一応の完成を見る。また忠克は、玉川兄弟と共に、江戸に水を供給する「玉川上水の施工に、水道奉行として加わった。 『赤堀川 増削・通水』は、二度の失敗を経て、伊奈 忠治の『赤堀川 初開削』から33年後の承応3(1654)年、赤堀川を三間増幅し、十間とした。この内、三間の深さを増して、通水した。これによって、利根川 本流は、常陸川に注ぐことになった。 常陸川は、当時、常陸国と下総国との境を
     <図8.>伊奈忠治が築いた福岡堰(つくばみらい市北山)の桜並木     東に流れ、香取海(カトリノウミ)<図1.を参照>に注いでいた。
 なお、寛文2(1662)年に着工し、四年後に完成した「新利根川」は、利根町 押付本田から霞ヶ浦への水運を目
 指したが、直線流路による速い流速と流域への洪水から、竣工の三年後には締切られ、用水となった。
 
 寛文5(1665)年、『逆川(サカガワ) 開削』によって、権現堂川と江戸川の分流点から、五霞の東を通り、境町(茨城県猿島郡)地先で、常陸川に合流した。これにより、関宿から江戸川への水運の大動脈が開かれた。 上記『赤堀川の増削・通水』によって利根川 本流が常陸川に注ぎ、その後、「利根川・渡良瀬川、および太日川・江戸川の流路変更」によって『利根川東遷と流域変更』がほぼ完成し、「利根水運」河川体系が形成された。伊奈 忠次による1594年の工事開始から72年目であった。

 (上)文責 : 椿 敬一郎 (補筆と画像提供 : HP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会)