「利根水運」と銚子の興隆


▼ 『利根川 東遷』による利根水運と紀州人による銚子の興隆・発展

治郎右衛門の外川漁港 家康による『利根川 東遷』への着手は、江戸入府4年後の文禄3(1594)年であるが、「関ヶ原の戦い」が慶長5(1600)年、江戸幕府開府が慶長9(1604)年、幕府による「銚子湊 築港」着手が慶長14(1609)年である。
 
 この時代、浜口梧洞や崎山治郎右衛門など、紀州生まれの  ”木国人”が、銚子の産業基盤を築いた。
 醤油醸造で知られる浜口梧洞は、紀州広村から寛永16(1639)年に来銚した。
       <図12.>碕山治郎右衛門の築いた外川漁港           崎山治郎右衛門(崎山飛騨守=長尾城主の子孫、源 安久、当時は広村の地頭)は、広村・湯浅・御坊から”紀州海民”130人を引き連れ、数百艘の大船団で、明暦2(1656)年に銚し、外川漁港を築き、漁港の上に石畳の街区や「干鰯場(ホシカバ)」を造成した
 築港の石材は、要所には長崎浦から切り出した極めて堅い火成岩を、その他には波止山(ハトヤマ)から切り出した堆積岩を使った。寛文2(1662)年、私材を投じての、7年かけた工事が完成した。
 治郎右衛門は、流砂が溜まらない「潮吹き堤防」方式による外川築港や、近代漁法によって、”外川千軒大繁盛”をもたらした。

 外川での紀州海民の繁栄は、この後110年ほど続いた後、終焉を迎えることになる。その経緯を、杉浦啓次著『東国漁業の夜明けと紀州海民の活躍』から引用する:
          
外川の本浦通りEd

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 明和元(1764)年、地元高神村の名主・新右衛門と、四代・崎山治郎右衛門との間に、干鰯場論争が持ち上がった。
 
 新右衛門は、「初代・治郎右衛門が開発した干鰯場の面積は、元禄10(1697)年の自帳で10町5反歩だったものを、19年後の享保元年に19町5反歩に増加したのは、治郎右衛門が高神村の土地を、許可なく開墾して干鰯場にしたものであり、違法。」という訴訟を起こした。

 治郎右衛門は3年争った後、明和4(1767)年、代官に訴え出た。この当時は、90年余り続いた不漁期の最中で、不漁は、この後ま   <図13.>海と外川漁港へ続く坂道
だ50年も続く。長年富を誇った崎山家も、財力を失い困窮していた。     「外川千軒大繁盛」の余韻を今に残す
 初代が地元民から受けた絶大な尊敬も既に失われ、紀州人から学ぶべきものはなく、地元民の漁場を奪う   ”邪魔な旅人”と思われるように変わっていた。
 地元領主にとっても、地元漁民の気持ちを抑えてまで、紀州海民の権益を護ってやる必要はなくなっていた。

 四代・崎山治郎右衛門の起こした訴訟は、この年、敗訴になった。
 安永2(1773)年、四代・崎山治郎右衛門は、後を5代目に任せて、紀州へ戻って行った。
  
 残された5代・治郎右衛門は、三崎の豪農・江畑三郎衛門の分家となり、農家になった。この後は、江畑姓を名乗るようになる。この頃、“紀州海民”は、外川に残る者もあったが、多くは三崎・名洗・小畑方面に移住した。
 彼らの子孫は、現在の「銚子木国会」の会員として、【銚子】市の経済界を担っている。
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 一方、幕府は、元禄3(1690)年、インフラとなる“津出し河岸”(船着き場)を設定して、「利根舟運」隆盛の礎を築いた。
 『利根川 東遷』の完成が1654年であり、その二年後に崎山治郎右衛門が来銚しているのは興味深い。
 
 家康が江戸入府した1590年、五井(遠州三河)松平家の松平 伊昌(コレマサ)が、下総国銚子の飯沼に、二千石を賜った。伊昌の子=忠実(タダザネ)の下で、徳川 家康の差配により、1609年に「銚子湊 築港」に着手した。
 約百年後の元禄11(1698)年の遠州移封まで、五井松平家が治めた後、【銚子】は幕府直轄領となった。
 その後、安永6(1777)年から幕末まで、【銚子】は、大河内松平家の高崎藩領五千石となった。周辺は、ほぼ幕府直轄領であった。
 これを見ても、【銚子】は江戸幕府にとって重要な地域と位置づけられていたことが分る。

幕末海上郡内領主区分図Ed
 <図14.幕末海上郡内領主区分図>
【凡例:=陣屋所在地、暗緑色&
緑色=高崎藩領、桃色=幕府直轄領、灰色=小見川藩領(忍町のみ)
橙色=生実(オユミ)藩領、赤色=佐倉藩領水色=安中藩領】 ワンクリックで拡大画面起動
忍町は、銚子で唯一の小見川藩領 。小見川藩は、文禄3(1594年、平家忠忍藩から移封されて立藩した。 

 「利根水運」では、当初、「水路輸送の荷物」は、江戸幕府の年貢米・東北諸藩の城米などが主であった。
 後年、醤油醸造にとって必須の原料である大豆・小麦・塩、醤油などの醸造品、沿岸漁業による干鰯(当時急速に普及した木綿の肥料)・〆粕・魚油(照明に必須)などの「商品荷物」にも拡大し、銚子産業発展の礎となった。 

 明治23(1890)年、オランダ人ムルデル設計の「利根運河」開通で、銚子-両国間20時間の汽船航路を開設した。
利根運河
<図15.> 「利根運河」経路図_利根川(柏市船戸)と江戸川(流山市深井新田)を結ぶ
〔出典: 柏市広報:「歴史発見」第12回「明治23年3月25日利根運河、営業運転開始」、平成25年発行〕
 
 運河通行は、翌24年の37,600隻を最高に、昭和12(1937)年には6,500隻と、一日僅か18隻にまで減少した。
 明治30(1890)年、銚子-本所間を5時間で運行する「総武鉄道」の開通に伴い、次第に、運河が陸上交通網によって代替されるようになった。
 それまでの数百年間、江戸の台所【銚子】から江戸・東京への物流幹線の役割を担うのは、『利根川水運』であった。
 結果として、江戸・東京からの文人墨客の周遊などを通して、人的・文化的な交流を可能としたことは、論をまたない。「文人墨客の銚子文学碑」も、貴重なジオパーク遺産である。

 それでは、『利根川 東遷』の前後での【銚子】の状況はどう変化したか、数少ない資料に基づいて記してみよう。

 ある資料によると、『利根川 東遷』に着手の前年、文禄2(1593)年に27軒だった銚子湊(飯貝根?)は、『利根川  東遷』完成60年後の承応3(1654)年には68軒との記述がある。
 一に、幕府による1609年「銚子湊 築港」と1690年の「津出し河岸」設定で、後の「利根水運 興隆」の基礎が築かれたこと。
 二に、江戸の外港としての銚子の有望性を見抜き、紀州から移住(?)した浜口梧洞・碕山治郎右衛門など、紀州人による「産業振興」の基礎が築かれたこと。
 これらが相乗効果をもたらした結果、江戸末期の【銚子】は、関東では江戸・水戸に次ぐ大都市となった。

 私達の故郷【銚子】が、どのように発展して来たのかについて、「ジオパーク」との関連で見てみよう。

 「銚子ジオパーク」のキャッチフレーズ=「太平洋に突き出た大地の右腕」をなす地形の影響を受けて、【銚子】沖は暖流と寒流の接点に位置し、大量のプランクトンが発生する。
 『紀州人の知恵』は、この海流の利を生かした漁業や、温暖で高湿な海洋性気候による醸造業などで、ジオの恵みを引き出した。
 伊奈 忠次の「先見性・計画性」と徳川家康の英断、それを実現した伊奈一族による200年に亘る『利根川 東遷』は、地理的優位性をもたらし、それを活用した人々による『利根舟運の隆盛』があった。

 【銚子】の発展は、ジオの災いを抑え、ジオの恵みを引き出した、先人たちの知恵に支えられている、と言ってもよいのではないか。 

 (下)文責 : 椿 敬一郎 (補筆と画像提供 : HP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会)