『利根川 東遷』 と「利根水運」

▼ 富士山の大噴火と伊奈 忠順の時代


 
元禄101697年、伊奈 忠次から数えて6代目の(タダアツ)が29歳の若さで夭逝した。
 事業は、弟=忠順(タダノブ)が、兄の養子となって引き継いだ。7代=伊奈 は、関東郡代として、治水工事、新田開発を行った。
 
 宝永4(170712月、620年ぶりに富士山が大噴火し、噴煙は高度15kmまで昇り、麓の須走村駿東郡小山町須走)には初め軽石が数10cm積り、翌日からは黒いスコリアが降り積もり、最終的に4mに達したという
 19日に及ぶ噴火により、小田原藩の全領10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まった。江戸でも6~9cm積もり、関東は大被害となった。 
伊奈忠順像_須走Ed
 
伊奈 は、「砂除 川浚(スナヨケ カワザライ)奉行」と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、川底に火山灰が堆積した酒匂川の浚渫・堤防修復に従事したほか、被災した駿東郡の復興に努力した。 
 この噴火では、最大の被災地=足柄・御厨地方には火山灰・軽石が3.5mも積ったという。ここにあった59ヶ村は、領有していた小田原藩によって「亡所」とされて幕府に返却され農民たちは「亡民とされて飢餓に苦しんでおり、忠順は伊奈家を挙げて救済に奔走した。
 
 宝永6(1709)年、家宣が6代将軍になると、新井白石らの側近政治になり、砂除川浚行は藤堂家に移され、被災地の救援は思うようにならなくなった。                         <図9.伊奈神社の伊奈忠順像>
 全国の大名から集めた救援金40万両のうち、被災民に使われたの     
は10万両足らずで、残り30万両は家宣の命により、大奥の改修費に流用された。
 
 忠順は代官職を擲って被災農民の救済に奔走、幕府に訴えたが取り合ってもらえず、最後には独断で、駿府紺屋町(静岡市)の幕府の米倉を開き、1万3千石を飢民へ分配した。これを咎められた忠順は、罷免され、正徳21712年、切腹を命じられた。40歳であった。 
 忠順に救済された農民たちは、その遺徳を偲び、須走村に「伊奈神社」を建立して忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。毎年春と秋には大祭が行われ、今も忠順の頌徳が偲ばれている
 新田次郎著『怒る富士』(文春文庫)は、伊奈 順を主人公とする。

▼ 浅間山の大噴火と銚子
 
荘川杢左衛門称徳碑 このくだりを読めば、【銚子】市民には想起される人物がいる筈。川杢左門である。
 杢左が高崎藩代官として藩の飛び地=【銚子】に赴任していた天明3(1783)年、浅間山が大噴火を起し、関東は大飢饉に陥った。
 浅間山に近い高崎は多大な被害を受け、当時、産業が盛んで豊かだった【銚子】に、食料・物資の要求をした。ところが、その銚子も、火山灰が20cmも積り、とても要求に応えられる状況ではなかった。
 そこで、
庄川杢左門は、藩命を無視し、独断で米蔵を解放した。
【銚子】の人々は、杢左衛門の英断で救われた。杢左衛門はその後、全責任を取って自刃したと伝わる。
< 図10.庄川杢左衛門頌徳碑(右)と口語石碑(左) > 
 
杢左衛門の三十三回忌に、銚子の高神村の名主と村民が、その遺徳を後世に残す為に、「頌徳碑」を建立した。

  杢左衛門は、銚子では、現在に至るまで「命の恩人」として語り継がれおり、この夏8月23~24日には、銚子市青少年文化会館で、市民ミュージカル『 「天明の代官」銚子を救った男~川杢左門物語~』の公演が予定されている。

▼ 「天明の大飢饉」と伊奈 忠尊の時代

 
川杢左門が活躍した時代、もう一人の、さらに大規模に飢民を救済した偉人が、江戸に登場する。
 12代「
関東郡代」=伊奈 忠尊、その人である。  

 悲劇の最期を遂げた忠順亡き後も、伊奈家の子孫は代々、関東郡代を務めた。
 伊奈 忠次から数えて11代目の忠啓(タダヒロ)は、権勢を誇った側用人=柳沢吉保の孫で、松平吉里(郡山15万石)の六男にあたり、伊奈家に婿に入った。
 安永71778年、が42歳で没した時、の実子=忠善(タダヨシ)は9歳だった。そこで、板倉藩から入った婿の忠尊(タダタカ)がの跡を継ぐとともに、忠善忠尊の婿となった。
 
 12代=伊奈 尊は、若干14歳で関東郡代を継ぎ、18歳で「織物糸綿改所」の騒動を解決した。
  この頃から、天候不良や冷害で、全国的に農作物の不作が続いていた。
 
天明3(1783)年、3月に岩木山(陸奥国)が噴火した。
 7月の浅間山 大噴火では死者が3万5千人に上ったという
 大量の降灰によって農業が出来なくなり、これが決定打となって、全国各地で飢饉が発生する。
 天明21782から天明81788にかけての7年間、近世日本史上最大の飢饉が発生した。これを天明の大飢饉」と呼ぶ。この飢饉は全国で、50万人の餓死者を出している。尊はこの時、18歳から24歳であった。

 21歳になった尊は、「勘定吟味役上座」に就任し、「関東郡代」と兼任し、また、幕府から無利子で金を借りて運用する「貸付金役所」を経営した
 尊23歳の天明7(1787家斉が11代将軍になると、老中=田沼意次が失脚し、吉宗の孫=松平定信が老中首座となった。
 この年、折からの
全国的な凶作の中、江戸 赤坂の20軒の米問屋の襲撃から始った「江戸の打壊しは、本来なら「江戸町奉行の管轄だが、手に負えず、関東郡代の忠尊が、各地から買い集めた米を江戸市中に大放出し、事態を収拾させた。天明の大飢饉の最中では米の買い付けに苦労するものと見られたが、伊奈氏の屋敷には、伊奈氏を助けようと、日々諸国から米が運び込まれた。は、民衆から「神様、仏様、伊奈様」と慕われたという。
 
 白河藩主でもある松平定信は、忠尊が田沼意次に進言して出されていた「米買い占め禁止令」を無視し、白河藩のみの救済に徹し、幕命に従った周辺各藩は20~30万人の餓死者を出した。結果的に凶作地への救済も行き届かなかった。その事を追求した忠尊は、松平定信に疎まれた。
 尊の経営する「貸付金役所」は、江戸の打壊し時の米の買い付けなどで、期限内に1万5千両を幕府に返せなくなった。尊は延納を願い出たが、幕閣から疎まれていたために拒否され、これを不服とした忠尊と幕閣との間に確執が生じた。 
赤山陣屋東堀跡Ed
 
寛政31791尊の側室に子が生まれると、婿 忠善との間に内紛が起こり、父 の実子=柳沢吉保の曾孫=忠善への家督移譲を、家臣団から迫られる
 この、仕組まれたような「お家騒動」を解決できなかったとして、翌年、忠尊は改易されて所領没収・永蟄居、「赤山陣屋は徹底的に破壊された。伊奈家は関東郡代」職を召し上げられ、勘定奉行」が「関東郡代」を兼任することになった。< 図11.関東郡代 「赤山陣屋」東堀 跡_川口市赤山 >
 「江戸の打壊しを収め、大飢饉から民衆を救ってから僅か4年、尊28歳の寛政41792年であった。
 忠尊の領地であった21ヶ村が赦免の願書を提出したが、幕閣に無視されて願いは届かず、寛政61794年、預かり先の南部信房陸奥国八戸藩の屋敷で、尊は31歳で没した。
 参考文献 : 九野啓祐著『関東郡代の終焉』(講談社出版サービスセンター) 
 
▼ 『利根川東遷』の最終章

 
文化3(1806)年、216年続いた「関東郡代」制は廃止されたが、その後も利根川では河川の改修や堤防の補強が続けられた。
 承応3(1654)年、伊奈 忠克によって十間に拡幅されていた赤堀川は、文化6(1809)年、更なる拡幅を行い、四倍の四十間となり、利根川本流となった常陸川の水量が増加した。
 天保9(1838)年、佐波(ザワ)(加須市)での『浅間川 締切』によって、古利根川への流入断絶を行い、ここに、『利根川 東遷』事業が完成した。
 一連の利根川・渡良瀬川(太日川・江戸川)の流路変更によって、「利根水運」の河川体系が形成された。 
 また、かつては関東の暴れ川と言われた利根川・渡良瀬川流域で、元の氾濫原において、大規模な新田開発が進むことになった。

  (中)文責 :  伊藤小糸 (HP&ブログの担当スタッフ  in  銚子ジオパーク推進市民の会) 


   (下) に続く