国道152号で中央構造線と秋葉街道を辿る (3)
≪ (2)からの続き ≫
2日目の9月28日(日)の日もとうに暮れて、時計の針は18:00を回りました。車は相変わらず道幅1車線の国道152号を、鹿塩川に沿って南に下っています。
ややあって、川と国道との間隔が広くなり、『中央構造線 北側露頭』の広い駐車場が現れます。ここは、明日29日(月)のジオツアーに組み込まれているジオサイトです。標高は1,204mで、分杭峠頂上から220m下って来ました。
<図28.北川露頭の駐車場> 昭和36(1961)年6月27日、梅雨末期の集中豪雨に伴う「西山」の崩壊に
よる土石流で、鹿塩小学校北川分校が破壊されました。
その2日後には、鹿塩川の支流=「大花沢」からの土石流で、鹿塩川の川床が上昇し、当時住んでいた39戸の民家のうち、数戸を残して土砂に埋まり、3名の方が犠牲になりました。川に掛かっていた橋も流され、コンクリート部分だけが、今も残っています。
北川露頭は、この「36災害」で土砂が流されて露頭したもので、駐車場入口から1.5km北の鹿塩川沿いにあります。
駐車場は木地師=大倉家の跡地だそうです。家は流され、 <図29.北川集落跡の神社&井上先生称徳碑(右端)> 露頭の山側に石垣だけが残っています。
北川露頭の駐車場の筋向いに、よく手入れされた境内を持った北川集落の神社があります。
36災害で壊滅的な被害を蒙り、2年後に全戸が離村する迄は、ここで村の祭礼が行われていたことでしょう。
神社の境内、摂社の近くに、『井上先生称徳碑』があります。
これは、流失した北川分校の校庭にあったもので、36災害から12年後の1973年に、100m下流の鹿塩川の中から発見されました。
この碑は、北川集落を心の拠り所としている人々によって、集落の跡地に復元建立されました。
<図30.災害復興記念碑と鹿塩川の流れ>
国道を隔てて神社跡とは反対側に、シャトル・バス発着所があり、大鹿村役場方向から分杭峠に行く人の為に便宜を図っています。
廃村となった北川地域を南に下ると、国道152号は、西流する支流の大花沢と鹿塩川の合流点の、手前と先で2回、橋を渡ります。
ここ迄来ると、鹿塩川の川床は深く削られて国道との高低差も大きくなり、川幅も広がって橋が長くなります。
2つの橋の間に、嘗ての北川集落の中心があったそうです。
今ここには、『災害復興記念碑』の建つ広場があり、国道の方を向いて地蔵尊も建っています。
不思議なことに、国土地理院の1/25,000の地図を見ると、ここでの鹿塩川の流れは東へ膨らんでいます。一方、ゼンリンの最新の地図では、川と <図31.北川集落跡と流亡した橋の跡
国道に挟まれたエリアの一部を抉り取るような流れに変わっています。 (天竜川上流河川事務所より)>
これが、36災害が残した川の軌跡なのでしょうか?
国道152号を更に南へ下ると、西流する支流の「手開沢」と鹿塩川の合流点の橋を渡る手前で、国道標識のポールに付随する地名標識「女高(オナタカ)」が現れます。橋の手前で、東側から、秋葉古道が合流しています。
手開沢を渡った道路東側の法面は、3年程前に崩落したそうです。土石流があった箇所では、コンクリート製の擁壁の更に上方向に、新しい擁壁を追加しています。
金網が張ってあるだけの所は、破砕された礫が落ちて来るのでしょうか?岩が剥き出しの所は、少し安全なのかも知れません。何れにしても、豪雨の日には通りたくない場所と思わせます。
<図32.手開沢付近の国道沿いの青い岩> 擁壁がない部分では、(1)で先述の三波川変成岩類の青みを帯びた岩に木の根が巻きつき、岩の隙間に入り込んでいる様子も見えます。
擁壁が少し低くなって来た辺りに、「飯田建設事務所」と書かれたゲートがあります。何か(雪・豪雨・土砂崩れ etc.?)あれば閉まる、つまり、割合頻繁に何かで閉まることを予想させます。
【注】 日没後の国道に関する画像に限り、後日、Google Street View でトレースしたものです。
文責 : 南アルプスJGN全国大会に参加したHP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会
≪ (4)に続く ≫
≪ (2)からの続き ≫
2日目の9月28日(日)の日もとうに暮れて、時計の針は18:00を回りました。車は相変わらず道幅1車線の国道152号を、鹿塩川に沿って南に下っています。
ややあって、川と国道との間隔が広くなり、『中央構造線 北側露頭』の広い駐車場が現れます。ここは、明日29日(月)のジオツアーに組み込まれているジオサイトです。標高は1,204mで、分杭峠頂上から220m下って来ました。
<図28.北川露頭の駐車場> 昭和36(1961)年6月27日、梅雨末期の集中豪雨に伴う「西山」の崩壊に
よる土石流で、鹿塩小学校北川分校が破壊されました。
その2日後には、鹿塩川の支流=「大花沢」からの土石流で、鹿塩川の川床が上昇し、当時住んでいた39戸の民家のうち、数戸を残して土砂に埋まり、3名の方が犠牲になりました。川に掛かっていた橋も流され、コンクリート部分だけが、今も残っています。
北川露頭は、この「36災害」で土砂が流されて露頭したもので、駐車場入口から1.5km北の鹿塩川沿いにあります。
駐車場は木地師=大倉家の跡地だそうです。家は流され、 <図29.北川集落跡の神社&井上先生称徳碑(右端)> 露頭の山側に石垣だけが残っています。
北川露頭の駐車場の筋向いに、よく手入れされた境内を持った北川集落の神社があります。
36災害で壊滅的な被害を蒙り、2年後に全戸が離村する迄は、ここで村の祭礼が行われていたことでしょう。
神社の境内、摂社の近くに、『井上先生称徳碑』があります。
これは、流失した北川分校の校庭にあったもので、36災害から12年後の1973年に、100m下流の鹿塩川の中から発見されました。
この碑は、北川集落を心の拠り所としている人々によって、集落の跡地に復元建立されました。
<図30.災害復興記念碑と鹿塩川の流れ>
国道を隔てて神社跡とは反対側に、シャトル・バス発着所があり、大鹿村役場方向から分杭峠に行く人の為に便宜を図っています。
廃村となった北川地域を南に下ると、国道152号は、西流する支流の大花沢と鹿塩川の合流点の、手前と先で2回、橋を渡ります。
ここ迄来ると、鹿塩川の川床は深く削られて国道との高低差も大きくなり、川幅も広がって橋が長くなります。
2つの橋の間に、嘗ての北川集落の中心があったそうです。
今ここには、『災害復興記念碑』の建つ広場があり、国道の方を向いて地蔵尊も建っています。
不思議なことに、国土地理院の1/25,000の地図を見ると、ここでの鹿塩川の流れは東へ膨らんでいます。一方、ゼンリンの最新の地図では、川と <図31.北川集落跡と流亡した橋の跡
国道に挟まれたエリアの一部を抉り取るような流れに変わっています。 (天竜川上流河川事務所より)>
これが、36災害が残した川の軌跡なのでしょうか?
国道152号を更に南へ下ると、西流する支流の「手開沢」と鹿塩川の合流点の橋を渡る手前で、国道標識のポールに付随する地名標識「女高(オナタカ)」が現れます。橋の手前で、東側から、秋葉古道が合流しています。
手開沢を渡った道路東側の法面は、3年程前に崩落したそうです。土石流があった箇所では、コンクリート製の擁壁の更に上方向に、新しい擁壁を追加しています。
金網が張ってあるだけの所は、破砕された礫が落ちて来るのでしょうか?岩が剥き出しの所は、少し安全なのかも知れません。何れにしても、豪雨の日には通りたくない場所と思わせます。
<図32.手開沢付近の国道沿いの青い岩> 擁壁がない部分では、(1)で先述の三波川変成岩類の青みを帯びた岩に木の根が巻きつき、岩の隙間に入り込んでいる様子も見えます。
擁壁が少し低くなって来た辺りに、「飯田建設事務所」と書かれたゲートがあります。何か(雪・豪雨・土砂崩れ etc.?)あれば閉まる、つまり、割合頻繁に何かで閉まることを予想させます。
国道標識のポールに付随する女高の地名標識が2回目に現れた後、国道は、鹿塩川の支流が東から合流する地点に向かって坂を下りて行きます。この支流を渡る橋の手前に、支流に沿って「北川牧場」へ至る未舗装道路との分岐があります。
この橋を渡ると、東側の視界が開け、国道沿いに僅かな畑、東の「女高沢」方向の奥まった高台に人家が見えます。女高の集落です。北川集落亡き後、国道152号沿いでは、大鹿村側で最奥の集落でしょうか? <図33.女高の高台の集落>
集落へ上る緩く長い坂道に、電柱の列が目立ちます。東の沢からの水を集めた小川を渡る時、「砂防指定地」の看板があり、地滑り地帯に気づかされます。
集落へ上る緩く長い坂道に、電柱の列が目立ちます。東の沢からの水を集めた小川を渡る時、「砂防指定地」の看板があり、地滑り地帯に気づかされます。
やや進むと、鹿塩川に掛かる比較的新しい橋があり、橋の向こう、電柱と道路の奥には、伊那山地を背景に数軒の集落が見えます。
平坦な畑の中を通る、農道のように狭い国道沿いにも人家が現れるようになると、国道標識のポールに付随する地名標識「儀内路(ギナイジ)」が現れます。国道152号沿いでは、大鹿村側で、奥から2番目の集落です。
鹿除けのネットを張った畑があり、最初に現れた2件は廃屋化していましたが、3番目からは人が住んでいました。
国道沿い東側に『治山二十年』の立派な石碑があり、その続きに「中峰・黒川林道」の分岐があります。行き先は、「北川・黒川 牧場」となっ <図34.儀内路の標識と鹿余けネットの畑と人家> ています。分岐点の標高は923mで、北川露頭の駐車場から281m下 って来ました。
国道沿い東側に『治山二十年』の立派な石碑があり、その続きに「中峰・黒川林道」の分岐があります。行き先は、「北川・黒川 牧場」となっ <図34.儀内路の標識と鹿余けネットの畑と人家> ています。分岐点の標高は923mで、北川露頭の駐車場から281m下 って来ました。
この林道は、鹿塩川の支流=「黒川沢」に沿って登り、その上流部から南の「塩川」の上流部へ進み、塩川に沿って下り、「鹿塩郵便局」前で国道152号へと戻ります。冬は長期に亘って全面通行止めになるものの、季節と天候が良ければ、アルプスの眺望や高山植物が素晴らしく、人気の林道です。
中峰黒川林道の分岐を過ぎ、黒川沢に掛かる橋の手前迄は、棚田に稲が実っています。千葉県では、この季節、刈入れが終わっていますが、気温の差でしょうか、長野県では未だのようです。
【注】 日没後の国道に関する画像に限り、後日、Google Street View でトレースしたものです。
文責 : 南アルプスJGN全国大会に参加したHP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会
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