HunakiTokoji20120221 世間の人が”船木”で思い出すのは、「世界一美しい」とも評された飛形で知られる、スキー・ジャンプの船木和喜(長野オリンピックで金2&銀1)でしょうか?

 一方、銚子半島には古来、海人系の古代豪族のひとつ、船木氏が住んでおり、利根川沿いに、今も船木町小船木町があります。中世には地域の領主として、小船木町1丁目の『東光寺』を居館としており、今も県道71号沿いに土塁の形跡が残ります。右のGoogle航空写真をダブルクリックすると、町・寺・神社・川・山の名前が見えます。 

 船木姓は、岩手・秋田から鹿児島・長崎まで、日本全国の海沿いの地域に分布が見られ、特に能登半島には船木姓が多く分布しています。正倉院文書には、能登の役人、船木部積万呂の記録があります。万葉集の編纂で知られる大伴家持の能登巡行でも、船木の由来と儀式が歌われています。

「鳥総(トブサ)立て 船木伐るとふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びそ」

 銅鐸(サナキ)祭祀で知られる船木氏は、かつて「神郡」とされた多気(タキ)(伊勢斎宮)の『佐那(サナ)神社』(現・三重県多気郡多気町)に田力男(タジカラオ)を祖神として祀り、ここを本拠地として、天武朝の律令国家形成よりもはるか以前から「造船」に携わっていました。

 『佐那神社』は、松阪で伊勢湾に注ぐ櫛田川の支流、佐奈(サナ)沿いに鎮座します。『佐那神社』の西方、櫛田川上流の丹生(ニュウ)地域には、空海が建立し”女人高野”で知られる『丹生大師』があり、一帯は水銀の一大産地として中世まで繁栄していました。古代、造船用材の防腐剤として水銀が使われており、町内を中央構造線が通る多気町で、船木氏はこの採掘・精製に携わっていました。他の地域では、船木氏銅・鉄・銀・金の精錬に携わった記録も残っています。

 マキの群落が銚子市指定の天然記念物になっている小船木町の『東光寺』も、始祖の地・紀州の『根来寺』から住職を迎えています。また、銚子市の寺の2/3と旭市の寺の4/7が、『根来寺』を再興した真言宗智山派に属し、紀州の影響を受けています。
 銚子と紀州との関係は、古代だけでなく、江戸時代に深まりました。紀州からは、醤油醸造技術がもたらされ、また、紀州の漁民が1,000家族以上も銚子に移住して、港町を築きました。外川漁港の繁栄も、この時代のことです。

 船木氏(オオ)の流れです。多安万侶(オオノヤスマロ)で知られる多氏は、太田命を祖とし、太田命の祖神は猿田彦大神です。銚子市森戸町の『猿田彦大神上陸之地』は、小船木町から北西に2kmほど離れた利根河岸にあります。しかも、小船木町2丁目の南側に猿田町が隣接しています。同族である猿田氏船木氏は、相前後してこの地に上陸したのかもしれません。

 船木氏が、黒潮に乗り、さらに利根川河口から遡って、今の地に上陸したのは、造船用材の切り出しを職掌としていたこの一族らしい選択です。銚子半島のどこに、わざわざ遠くから船旅を続け、大挙して上陸して伐り出すほどの森林があったのか、今ではとても信じられないといったところです。