『 伊能忠敬日誌と当時の天候 』 会員メール集(下)_市民の会 

                                                          (中)からの続き
【 9 】 日付 : 201598日 10:19、
     件名 : Re: 夢想)伊能日誌からの気象状況、差出人 : Mr.B(2)

日記から忠敬の持病を調べている人や、全国を歩き回って当時の偏角を調べたりと、色々な人がいます。

ですが、気象・地震を調べている人はいないと思います。
今回、肝心の温度や気圧、風向・風速のないデータ(数値データがない)からの推測は、
無理っぽいのは分かっていましたが、専門家ならではの知見にもとづいた大胆な推論を期待しました。 

ざっと拝見させて頂きました。
気象音痴の自分ですが、銚子測量当時の気象状況を理解してみたいと思います。
先ずは御礼まで

【 10 】 日付 : 201598日 14:49
       件名 : 富士山の目視、差出人 : Mr.S(6)
 

>・・・銚子測量当時の気象状況を理解してみたい・・・

ここからは、Mr.Bのメールにあります
『今は、この時期、富士山を目視することはほとんど無理ですが・・・』についての愚考です。

ご来光Ed水平方向の見通しの程度は、ほとんど、水蒸気の量によって決まってしまうのでしょうから、
「乾燥した空気に覆われる」ことが、遠方の見通しが良く「富士山が見える」ための
第一の条件となります。

これは、経験的にも、「夏場(南から、海からの水蒸気の多い風)よりも、冬場(北から、内陸からの水蒸気の少ない風)の方が富士山は良く見える」と合致します。

夏場に富士山を目視できない(しづらい)理由として、もう一つ考えられます。
それは富士山が雲に覆われてしまうことです。
特に夏場は、太陽が昇り始めるとともに、富士山の斜面が熱せられて、雲が湧いてきます。
夏の富士山でいわゆる「ご来光」が見えるのは、日の出からのわずかな時間です。
もちろん、雲の湧き具合は、水蒸気の量や日射の強さなどに左右されますので、
一概に「日の出から何時まで」とは言えませんが。                 <  図4.富士山_夏のご来光、下は雲海 >

江戸時代に比べて富士山が遠望できない理由としては、昨今の「地球温暖化の影響」も考えられます。
つまり、昨秋の講演会で、元 気象研究所長の加納さんがおっしゃっていましたように、
「海の異変」の一つに「海の水温の上昇」があります。
これは水蒸気の量の増大に結びつき、富士山への見通しの低下   
のみならず、昨今の豪雨多発化の原因の一つとなっています。

さらにもう一つ(こちらの方が見通しを妨げる主要な原因とも思えます)、
銚子から富士山までのちょうど中間に、首都圏、そして京浜工業地帯があり、
「随分と空気が浄化されてはきている」ものの、
大気汚染物質(地球温暖化物質)が「富士山への目視を遮っている」と考えます。
 

【 11 】 日付 : 2015911日 13:36、
      件名 : Re:享和元年の明日、差出人 : Mr.T(2) 
 

この間、93日 伊能忠敬一行の富士山目視を話題にしていますが
現代ではほとんど不可能な、この時期の富士山目視を1週間かけて行うには、
何か、理由があったのでしょうね? 

1801年には、「この時期でも、富士山目視が可能」という情報があったのでしょうね?

そのような文書はないのでしょうか?
また、測量隊は、この時期にしか銚子に来ることができなかったのですか?

富士山目視にもっと確実な時期(江戸時代でも、冬季のほうが確実だったでしょう)を
選ばなかったのですか?
 

【12】 日付 : 2015912 0:06、
      件名 : Re: 享和元年の明日、差出人 : Mr.B(3)

伊能忠敬
の富士山目視の件
>現代ではほとんど不可能な、この時期の富士山目視を1週間かけて行うには、何か、
理由があったのでしょうね? 

第2次測量の初期に伊豆方面を測量したことには、それなりの意味がありました。 

伊豆と言えば世界遺産で知られる韮山ですが、そこの世襲代官は江川家です。
伊豆は海防上重要な場所ですから、地図の必要性は十分にありました。
最優先した背景は、松平定信の関係もあったかも知れません。
(相模・伊豆方面を海防の見地から巡検しています。忠敬測量の頃は白河に戻っていますが)

因みに、代官江川英毅と伊能忠敬は関係が深いです。
測量について忠敬から通信教育なども受けています。すごいでしょ!飛脚の時代ですから。
とにかく江川家は、先進的技術をどんどん入れています。反射炉だけではありません。 

1801年には、「この時期でも、富士山目視が可能」という情報があったのでしょうね?
>そのような文書はないのでしょうか?

今のところ、目視可能情報があった証拠を知りません。
敢えて問われれば、私は忠敬の情報ではないかと思っています。 

当時、銚子は、利根水運でつながった江戸でも知られた観光地ですから(幕末、明治頃ほどではないとしても)、刑部岬や犬若は江戸でも知られた富士見ポイントだったようです。?
とすれば、江戸の人でも、「10日も滞在すればOKか?」くらいは知っていたと思われます。
忠敬は銚子に知人がいました。何度も銚子に来ていたと思われます。
幕府天文方も、忠敬を除いて情報を得るとは考えにくいです。 

>また、測量隊は、この時期にしか銚子に来ることができなかったのですか?
>富士山目視にもっと確実な時期を選ばなかったのですか? 

多分、今よりはずっと見えやすかったのではないでしょうか。
1か月待っても無理だとしたら、出発月を変えますよね。辛抱強い?私でも。 

この辺の事情を、Mr.Sに、専門家の知見でバッサリ解決して頂けると、講釈師の口が軽やかになれるわけです。
改めまして、一刀両断お願い致します。 

1次測量での蝦夷地は大変で、帰りが冬になることを、一番考えたと思います。
 

【 13 】 日付 : 2015914日 21:44
      件名 : Re:享和元年の明日、差出人 : Mr.T(3)  

小生の素朴な幼稚な疑問に丁寧に返事いただきありがとうございます。
多分200年前(1800年代)にあたりまえ(9月に銚子で富士山が見える)の事柄が
200年後にその証拠を見つけることが難しい・・・

こういうことがほかにもあるのでしょうね。