先日、久々に「銚子市青少年文化会館」を訪れた。
目的は、同館に展示されていた「ウィーヘルト(Wiechert )地震計」に、もう一度会えないものかと。
目的は、同館に展示されていた「ウィーヘルト(Wiechert )地震計」に、もう一度会えないものかと。
展示コーナーは、「銚子ジオパーク展示室」へと大幅に模様替えされつつあり、40年余りの長い期間展示されていた、地震計とその隣の気象測器が撤去されて、「すでに倉庫」とのことで、残念ながら再会することができなかった。
ウィーヘルト地震計は、1904(明治37)年にドイツのウィーヘルトによって考案されたものである。
水平の地動(大地の動き)を東西と南北の2つの成分について記録する機器と、上下の地動を記録する機器の2台が1組になっており、共に倍率は80倍であった。
深発地震を良く捕捉することができる地震計で、当時としては画期的なものであった。
< 銚子市青少年文化会館のウィーヘルト地震計_2013年3月撮影 >
我が国においては、ウィーヘルトの考案から3年後の1907(明治40)年、初めて中央気象台(現在の気象庁)に設置された。
その後、1923(大正12)年の関東大震災を契機に100台余りが輸入され、ウィーヘルト地震計を主体とする国内の地震観測網の確立が図られた。
銚子におけるウィーヘルト地震計による地震の観測は、1926(大正15)年2月23日からとされている。
ちなみに、観測機器による地震観測は、1875(明治8)年6月1日、東京の赤坂葵町に「東京気象台(後の中央気象台)」が創立されると同時で、パルミエル地震計によって始められた。
その後は1881年、函館測候所(最初の測候所)から始まり、順次、全国の気象官署に整備され、明治末には59か所に地震計が置かれた。
銚子測候所(現在の銚子地方気象台)には1889(明治22)年の整備。これは、大阪や名古屋よりも1~2年早いものであった。
一方、ウィーヘルト地震計は、記録装置・刻時装置などが機械式であり、その精度には限界があった。
戦後の急速な電子技術の進展に合わせて、気象庁では、高度に電子化された新たな地震計「電磁式地震計」への切り替えが進められ、銚子における機械式の地震計は、1969(昭和44)年、その役割を終えた。
役割を終えたウィーヘルト地震計は、その後、銚子地方気象台から古物商を経由して銚子市に寄贈され、40年余りの長い期間、「銚子市青少年文化会館」に展示されていた。
< 当時の銚子測候所(観音駅南側の高台)の地震計室(中央部の出窓のあたり)_昭和20年代撮影 >
展示されていたウィーヘルト地震計は、上下動の振動を記録するもので、振り子の周期を長くするなどの工夫が施され、地震計の原理を感覚的に理解でき、また、歴史的な価値も高いものがあった。
大地の公園=ジオパークを推進するとき、大地の動きを観測し続けた歴史的な地震計を展示する意義は大きく、また青少年への地震防災教育にも寄与できるものであったろうに…、と惜しい気がしてならない。
が、一方で、ウィーヘルト地震計を通して地震観測に従事した者は、今「高齢者」と呼ばれるようになった団塊世代が最後。寂しいことではあるが、これも時の流れのひとつの区切りであろうか…
さらばウィーヘルト地震計!
文責 & 写真 : 宮内 秀