利根川

『利根川 東遷』 による「利根水運」と銚子の興隆(下)

「利根水運」と銚子の興隆


▼ 『利根川 東遷』による利根水運と紀州人による銚子の興隆・発展

治郎右衛門の外川漁港 家康による『利根川 東遷』への着手は、江戸入府4年後の文禄3(1594)年であるが、「関ヶ原の戦い」が慶長5(1600)年、江戸幕府開府が慶長9(1604)年、幕府による「銚子湊 築港」着手が慶長14(1609)年である。
 
 この時代、浜口梧洞や崎山治郎右衛門など、紀州生まれの  ”木国人”が、銚子の産業基盤を築いた。
 醤油醸造で知られる浜口梧洞は、紀州広村から寛永16(1639)年に来銚した。
       <図12.>碕山治郎右衛門の築いた外川漁港           崎山治郎右衛門(崎山飛騨守=長尾城主の子孫、源 安久、当時は広村の地頭)は、広村・湯浅・御坊から”紀州海民”130人を引き連れ、数百艘の大船団で、明暦2(1656)年に銚し、外川漁港を築き、漁港の上に石畳の街区や「干鰯場(ホシカバ)」を造成した
 築港の石材は、要所には長崎浦から切り出した極めて堅い火成岩を、その他には波止山(ハトヤマ)から切り出した堆積岩を使った。寛文2(1662)年、私材を投じての、7年かけた工事が完成した。
 治郎右衛門は、流砂が溜まらない「潮吹き堤防」方式による外川築港や、近代漁法によって、”外川千軒大繁盛”をもたらした。

 外川での紀州海民の繁栄は、この後110年ほど続いた後、終焉を迎えることになる。その経緯を、杉浦啓次著『東国漁業の夜明けと紀州海民の活躍』から引用する:
          
外川の本浦通りEd

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 明和元(1764)年、地元高神村の名主・新右衛門と、四代・崎山治郎右衛門との間に、干鰯場論争が持ち上がった。
 
 新右衛門は、「初代・治郎右衛門が開発した干鰯場の面積は、元禄10(1697)年の自帳で10町5反歩だったものを、19年後の享保元年に19町5反歩に増加したのは、治郎右衛門が高神村の土地を、許可なく開墾して干鰯場にしたものであり、違法。」という訴訟を起こした。

 治郎右衛門は3年争った後、明和4(1767)年、代官に訴え出た。この当時は、90年余り続いた不漁期の最中で、不漁は、この後ま   <図13.>海と外川漁港へ続く坂道
だ50年も続く。長年富を誇った崎山家も、財力を失い困窮していた。     「外川千軒大繁盛」の余韻を今に残す
 初代が地元民から受けた絶大な尊敬も既に失われ、紀州人から学ぶべきものはなく、地元民の漁場を奪う   ”邪魔な旅人”と思われるように変わっていた。
 地元領主にとっても、地元漁民の気持ちを抑えてまで、紀州海民の権益を護ってやる必要はなくなっていた。

 四代・崎山治郎右衛門の起こした訴訟は、この年、敗訴になった。
 安永2(1773)年、四代・崎山治郎右衛門は、後を5代目に任せて、紀州へ戻って行った。
  
 残された5代・治郎右衛門は、三崎の豪農・江畑三郎衛門の分家となり、農家になった。この後は、江畑姓を名乗るようになる。この頃、“紀州海民”は、外川に残る者もあったが、多くは三崎・名洗・小畑方面に移住した。
 彼らの子孫は、現在の「銚子木国会」の会員として、【銚子】市の経済界を担っている。
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 一方、幕府は、元禄3(1690)年、インフラとなる“津出し河岸”(船着き場)を設定して、「利根舟運」隆盛の礎を築いた。
 『利根川 東遷』の完成が1654年であり、その二年後に崎山治郎右衛門が来銚しているのは興味深い。
 
 家康が江戸入府した1590年、五井(遠州三河)松平家の松平 伊昌(コレマサ)が、下総国銚子の飯沼に、二千石を賜った。伊昌の子=忠実(タダザネ)の下で、徳川 家康の差配により、1609年に「銚子湊 築港」に着手した。
 約百年後の元禄11(1698)年の遠州移封まで、五井松平家が治めた後、【銚子】は幕府直轄領となった。
 その後、安永6(1777)年から幕末まで、【銚子】は、大河内松平家の高崎藩領五千石となった。周辺は、ほぼ幕府直轄領であった。
 これを見ても、【銚子】は江戸幕府にとって重要な地域と位置づけられていたことが分る。

幕末海上郡内領主区分図Ed
 <図14.幕末海上郡内領主区分図>
【凡例:=陣屋所在地、暗緑色&
緑色=高崎藩領、桃色=幕府直轄領、灰色=小見川藩領(忍町のみ)
橙色=生実(オユミ)藩領、赤色=佐倉藩領水色=安中藩領】 ワンクリックで拡大画面起動
忍町は、銚子で唯一の小見川藩領 。小見川藩は、文禄3(1594年、平家忠忍藩から移封されて立藩した。 

 「利根水運」では、当初、「水路輸送の荷物」は、江戸幕府の年貢米・東北諸藩の城米などが主であった。
 後年、醤油醸造にとって必須の原料である大豆・小麦・塩、醤油などの醸造品、沿岸漁業による干鰯(当時急速に普及した木綿の肥料)・〆粕・魚油(照明に必須)などの「商品荷物」にも拡大し、銚子産業発展の礎となった。 

 明治23(1890)年、オランダ人ムルデル設計の「利根運河」開通で、銚子-両国間20時間の汽船航路を開設した。
利根運河
<図15.> 「利根運河」経路図_利根川(柏市船戸)と江戸川(流山市深井新田)を結ぶ
〔出典: 柏市広報:「歴史発見」第12回「明治23年3月25日利根運河、営業運転開始」、平成25年発行〕
 
 運河通行は、翌24年の37,600隻を最高に、昭和12(1937)年には6,500隻と、一日僅か18隻にまで減少した。
 明治30(1890)年、銚子-本所間を5時間で運行する「総武鉄道」の開通に伴い、次第に、運河が陸上交通網によって代替されるようになった。
 それまでの数百年間、江戸の台所【銚子】から江戸・東京への物流幹線の役割を担うのは、『利根川水運』であった。
 結果として、江戸・東京からの文人墨客の周遊などを通して、人的・文化的な交流を可能としたことは、論をまたない。「文人墨客の銚子文学碑」も、貴重なジオパーク遺産である。

 それでは、『利根川 東遷』の前後での【銚子】の状況はどう変化したか、数少ない資料に基づいて記してみよう。

 ある資料によると、『利根川 東遷』に着手の前年、文禄2(1593)年に27軒だった銚子湊(飯貝根?)は、『利根川  東遷』完成60年後の承応3(1654)年には68軒との記述がある。
 一に、幕府による1609年「銚子湊 築港」と1690年の「津出し河岸」設定で、後の「利根水運 興隆」の基礎が築かれたこと。
 二に、江戸の外港としての銚子の有望性を見抜き、紀州から移住(?)した浜口梧洞・碕山治郎右衛門など、紀州人による「産業振興」の基礎が築かれたこと。
 これらが相乗効果をもたらした結果、江戸末期の【銚子】は、関東では江戸・水戸に次ぐ大都市となった。

 私達の故郷【銚子】が、どのように発展して来たのかについて、「ジオパーク」との関連で見てみよう。

 「銚子ジオパーク」のキャッチフレーズ=「太平洋に突き出た大地の右腕」をなす地形の影響を受けて、【銚子】沖は暖流と寒流の接点に位置し、大量のプランクトンが発生する。
 『紀州人の知恵』は、この海流の利を生かした漁業や、温暖で高湿な海洋性気候による醸造業などで、ジオの恵みを引き出した。
 伊奈 忠次の「先見性・計画性」と徳川家康の英断、それを実現した伊奈一族による200年に亘る『利根川 東遷』は、地理的優位性をもたらし、それを活用した人々による『利根舟運の隆盛』があった。

 【銚子】の発展は、ジオの災いを抑え、ジオの恵みを引き出した、先人たちの知恵に支えられている、と言ってもよいのではないか。 

 (下)文責 : 椿 敬一郎 (補筆と画像提供 : HP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会)
 


 


 

 

『利根川 東遷』 による「利根水運」と銚子の興隆(中)

『利根川 東遷』 と「利根水運」

▼ 富士山の大噴火と伊奈 忠順の時代


 
元禄101697年、伊奈 忠次から数えて6代目の(タダアツ)が29歳の若さで夭逝した。
 事業は、弟=忠順(タダノブ)が、兄の養子となって引き継いだ。7代=伊奈 は、関東郡代として、治水工事、新田開発を行った。
 
 宝永4(170712月、620年ぶりに富士山が大噴火し、噴煙は高度15kmまで昇り、麓の須走村駿東郡小山町須走)には初め軽石が数10cm積り、翌日からは黒いスコリアが降り積もり、最終的に4mに達したという
 19日に及ぶ噴火により、小田原藩の全領10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まった。江戸でも6~9cm積もり、関東は大被害となった。 
伊奈忠順像_須走Ed
 
伊奈 は、「砂除 川浚(スナヨケ カワザライ)奉行」と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、川底に火山灰が堆積した酒匂川の浚渫・堤防修復に従事したほか、被災した駿東郡の復興に努力した。 
 この噴火では、最大の被災地=足柄・御厨地方には火山灰・軽石が3.5mも積ったという。ここにあった59ヶ村は、領有していた小田原藩によって「亡所」とされて幕府に返却され農民たちは「亡民とされて飢餓に苦しんでおり、忠順は伊奈家を挙げて救済に奔走した。
 
 宝永6(1709)年、家宣が6代将軍になると、新井白石らの側近政治になり、砂除川浚行は藤堂家に移され、被災地の救援は思うようにならなくなった。                         <図9.伊奈神社の伊奈忠順像>
 全国の大名から集めた救援金40万両のうち、被災民に使われたの     
は10万両足らずで、残り30万両は家宣の命により、大奥の改修費に流用された。
 
 忠順は代官職を擲って被災農民の救済に奔走、幕府に訴えたが取り合ってもらえず、最後には独断で、駿府紺屋町(静岡市)の幕府の米倉を開き、1万3千石を飢民へ分配した。これを咎められた忠順は、罷免され、正徳21712年、切腹を命じられた。40歳であった。 
 忠順に救済された農民たちは、その遺徳を偲び、須走村に「伊奈神社」を建立して忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。毎年春と秋には大祭が行われ、今も忠順の頌徳が偲ばれている
 新田次郎著『怒る富士』(文春文庫)は、伊奈 順を主人公とする。

▼ 浅間山の大噴火と銚子
 
荘川杢左衛門称徳碑 このくだりを読めば、【銚子】市民には想起される人物がいる筈。川杢左門である。
 杢左が高崎藩代官として藩の飛び地=【銚子】に赴任していた天明3(1783)年、浅間山が大噴火を起し、関東は大飢饉に陥った。
 浅間山に近い高崎は多大な被害を受け、当時、産業が盛んで豊かだった【銚子】に、食料・物資の要求をした。ところが、その銚子も、火山灰が20cmも積り、とても要求に応えられる状況ではなかった。
 そこで、
庄川杢左門は、藩命を無視し、独断で米蔵を解放した。
【銚子】の人々は、杢左衛門の英断で救われた。杢左衛門はその後、全責任を取って自刃したと伝わる。
< 図10.庄川杢左衛門頌徳碑(右)と口語石碑(左) > 
 
杢左衛門の三十三回忌に、銚子の高神村の名主と村民が、その遺徳を後世に残す為に、「頌徳碑」を建立した。

  杢左衛門は、銚子では、現在に至るまで「命の恩人」として語り継がれおり、この夏8月23~24日には、銚子市青少年文化会館で、市民ミュージカル『 「天明の代官」銚子を救った男~川杢左門物語~』の公演が予定されている。

▼ 「天明の大飢饉」と伊奈 忠尊の時代

 
川杢左門が活躍した時代、もう一人の、さらに大規模に飢民を救済した偉人が、江戸に登場する。
 12代「
関東郡代」=伊奈 忠尊、その人である。  

 悲劇の最期を遂げた忠順亡き後も、伊奈家の子孫は代々、関東郡代を務めた。
 伊奈 忠次から数えて11代目の忠啓(タダヒロ)は、権勢を誇った側用人=柳沢吉保の孫で、松平吉里(郡山15万石)の六男にあたり、伊奈家に婿に入った。
 安永71778年、が42歳で没した時、の実子=忠善(タダヨシ)は9歳だった。そこで、板倉藩から入った婿の忠尊(タダタカ)がの跡を継ぐとともに、忠善忠尊の婿となった。
 
 12代=伊奈 尊は、若干14歳で関東郡代を継ぎ、18歳で「織物糸綿改所」の騒動を解決した。
  この頃から、天候不良や冷害で、全国的に農作物の不作が続いていた。
 
天明3(1783)年、3月に岩木山(陸奥国)が噴火した。
 7月の浅間山 大噴火では死者が3万5千人に上ったという
 大量の降灰によって農業が出来なくなり、これが決定打となって、全国各地で飢饉が発生する。
 天明21782から天明81788にかけての7年間、近世日本史上最大の飢饉が発生した。これを天明の大飢饉」と呼ぶ。この飢饉は全国で、50万人の餓死者を出している。尊はこの時、18歳から24歳であった。

 21歳になった尊は、「勘定吟味役上座」に就任し、「関東郡代」と兼任し、また、幕府から無利子で金を借りて運用する「貸付金役所」を経営した
 尊23歳の天明7(1787家斉が11代将軍になると、老中=田沼意次が失脚し、吉宗の孫=松平定信が老中首座となった。
 この年、折からの
全国的な凶作の中、江戸 赤坂の20軒の米問屋の襲撃から始った「江戸の打壊しは、本来なら「江戸町奉行の管轄だが、手に負えず、関東郡代の忠尊が、各地から買い集めた米を江戸市中に大放出し、事態を収拾させた。天明の大飢饉の最中では米の買い付けに苦労するものと見られたが、伊奈氏の屋敷には、伊奈氏を助けようと、日々諸国から米が運び込まれた。は、民衆から「神様、仏様、伊奈様」と慕われたという。
 
 白河藩主でもある松平定信は、忠尊が田沼意次に進言して出されていた「米買い占め禁止令」を無視し、白河藩のみの救済に徹し、幕命に従った周辺各藩は20~30万人の餓死者を出した。結果的に凶作地への救済も行き届かなかった。その事を追求した忠尊は、松平定信に疎まれた。
 尊の経営する「貸付金役所」は、江戸の打壊し時の米の買い付けなどで、期限内に1万5千両を幕府に返せなくなった。尊は延納を願い出たが、幕閣から疎まれていたために拒否され、これを不服とした忠尊と幕閣との間に確執が生じた。 
赤山陣屋東堀跡Ed
 
寛政31791尊の側室に子が生まれると、婿 忠善との間に内紛が起こり、父 の実子=柳沢吉保の曾孫=忠善への家督移譲を、家臣団から迫られる
 この、仕組まれたような「お家騒動」を解決できなかったとして、翌年、忠尊は改易されて所領没収・永蟄居、「赤山陣屋は徹底的に破壊された。伊奈家は関東郡代」職を召し上げられ、勘定奉行」が「関東郡代」を兼任することになった。< 図11.関東郡代 「赤山陣屋」東堀 跡_川口市赤山 >
 「江戸の打壊しを収め、大飢饉から民衆を救ってから僅か4年、尊28歳の寛政41792年であった。
 忠尊の領地であった21ヶ村が赦免の願書を提出したが、幕閣に無視されて願いは届かず、寛政61794年、預かり先の南部信房陸奥国八戸藩の屋敷で、尊は31歳で没した。
 参考文献 : 九野啓祐著『関東郡代の終焉』(講談社出版サービスセンター) 
 
▼ 『利根川東遷』の最終章

 
文化3(1806)年、216年続いた「関東郡代」制は廃止されたが、その後も利根川では河川の改修や堤防の補強が続けられた。
 承応3(1654)年、伊奈 忠克によって十間に拡幅されていた赤堀川は、文化6(1809)年、更なる拡幅を行い、四倍の四十間となり、利根川本流となった常陸川の水量が増加した。
 天保9(1838)年、佐波(ザワ)(加須市)での『浅間川 締切』によって、古利根川への流入断絶を行い、ここに、『利根川 東遷』事業が完成した。
 一連の利根川・渡良瀬川(太日川・江戸川)の流路変更によって、「利根水運」の河川体系が形成された。 
 また、かつては関東の暴れ川と言われた利根川・渡良瀬川流域で、元の氾濫原において、大規模な新田開発が進むことになった。

  (中)文責 :  伊藤小糸 (HP&ブログの担当スタッフ  in  銚子ジオパーク推進市民の会) 


   (下) に続く   

 

『利根川 東遷』 による「利根水運」と銚子の興隆(上)

『利根川 東遷』 

▼ 序章

 私達の故郷【銚子】が、どのように発展したのかについて、「ジオパーク」との関連に触れつつ、考えてみたいと思う。

 【銚子】の発展については、天正18(1590)年、徳川 家康の江戸入府に遡る。
 何故なら、後の「利根水運」興隆の契機は、家康の『利根川 東遷』事業による、「利根水運」ネットワークの形成にある。
 この事業は、文禄3(1594)年~承応3(1654)年の60年間に一応完成を見ており、水運難破多発の「房総沖航路」を避け、銚子から利根川利用の「内航航路」(+陸送)による、安全確保を可能にしたものである。

 これが【銚子】発展の礎を築いた事実について、以下に論を進めることとする。

 明治8(1873)年発行の『日本地誌概要』によると、関東地方の主要都市人口ランキングでは、
   ① 東京  595,905人、
   ② 横浜    64,602人、
   ③ 水戸    19,010人、
   ④ 銚子    17,688人
となっており、安政5(1858)年の「日米修好通商条約」以降に、神奈川の一寒村が僅かな時間で大発展した横浜を別とすれば、江戸末期の【銚子】は、江戸や水戸に次ぐ都市・街であったといえる。
 
 次項では、横浜ならぬ一寒村の【銚子】が、どのように発展したかについて、『利根川 東遷』から検証する。

千年前の関東の地勢図Big
<図1.> 約1,000年前(平安中期)における関東地方の地勢と印旛沼 <ワンクリックで拡大画面起動
〔出典:千葉県:「千葉県の自然誌 本編1 千葉県の自然、平成8年発行〕
 
▼ 徳川幕府における『利根川東遷』事業の概要

 家康は、秀吉から関八州を与えられて、1590年に江戸入府した。
 江戸入府の際、家康は、譜代の家臣=伊奈備前守忠次
(イナ ビゼンノカミ タダツグ)に、その生国=三河国小島(西尾市)の旧領と、小室(北足立郡伊奈町小室)、鴻巣(鴻巣市)を合わせて一万三千石の知行を与え、「関東代官頭」(後の「関東郡代」)とした。
 以後205年に亘り、伊奈家は「関東郡代」を務めた。「関東郡代」は、関東の幕府直轄領、実質約100万石を管轄していた。
伊奈忠次障子堀Ed 伊奈忠次は、小室に拠点を置き、関八州【注1】を初め全国各地の検地を指揮し、”備前検地”として知られる。
 【注1】 関八州 :相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8ヶ国。

 4年後の文禄3(1594)年、家康は、治水巧者として知られていた「関東代官頭」=伊奈忠次に、『利根川 東遷』事業を命じた。 それ以来、この大土木事業は、伊奈一族が担った。
 この事業は、家康の四男=松平忠吉が入った忍藩【注2】で、家老=小笠原吉次が命じられた利根川の水害対策を、伊奈忠次が指導したことに端を発する。
折しも、家康が江戸城下を拓く時期に当たり、譜代の
   < 図2.>忠次の小室陣屋の障子堀(埼玉県指定遺跡)   忠次は、「江戸を洪水から守ること、関東一円の治水事
    関東ローム層を巧みに掘り残して水を溜めた    業として、利根川と太日川を接続して新たな堤防工事を行うこと」などを家康に進言し、認められて工事に至ったという。 忍藩は、暴れ川として知られた利根川の氾濫に苦しめられていたことから、忠次は、利根川の水量を減らすため、渡良瀬川下流の太日川 (フトイガワ)に分流させる計画を立てた。 【注2】 武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は、”忍の浮き城”で知られる忍城(行田市)に置かれた。幕末、忍藩主松平氏は、幕府から「品川台場」(品川区台場)など東京湾の警備を命じられ、海防藩と呼ばれた。忍藩領地の埼玉北部が東京湾から離れているため、幕府は、忍藩のうち、武蔵領5万石と引き換えに、房総に5万石を給地した。忍藩は、必要な船・人足を房総領から調達し、警備に当った。

 以下の<図3>をワンクリックすると、図3を拡大した別画面が立ち上がるので、それを、ブログ画面とは別ウィンドウとして並列し、参照して頂くと、これ以降の解説が分り易くなります。(別画面を閉じる場合は、別ウィンドウの最上部右端のXマークをクリック。)
利根川東遷事業工事とその後の利根川Big
<図3.> 『利根川東遷』事業工事とその後の利根川<ワンクリックで拡大画面起動
〔出典:千葉県柏土地改良事務所:「東葛地域の田園づくり」、平成12年発行〕 

 その事業は、1594年、上川俣(羽生市)における『会の川(アイノカワ)締め切り』から開始された。 
 この工事は、それまで二又だった古利根川を、浅間川(アサマガワ)に一本化して東遷させ、川口(加須市)で旧河道に合流させると同時に、派川を東方へ開削し、太日川、即ち、今の江戸川に分流させた。伊奈忠次は、1600年の「関ヶ原の戦い」で小荷駄奉行として軍功を挙げた後、『利根川 東遷』事業に復帰した。
水戸備前堀2Ed2
 
伊奈備前守次の土木事業の方式は”伊奈流”と呼ばれている。
 それは、毎年のように起こる程度の出水に対しては、堤防によりこれを防ぎ、大洪水はむしろ堤防を越水させ、遊水池により被害を少なく抑えることにあった。この方式は、その後の幕府の基本となった。
 全国に残された”備前堀”・”備前堤”の名は、彼の治水・灌漑事業における活躍を物語っている。
 
 木曽川左岸の”備前堤”完成の翌年=慶長15(1610)年
初代=伊奈 忠次は60歳で没した。

伊奈氏屋敷跡Ed
       <図4.>伊奈忠次の備前堀(桜川と涸沼川を結ぶ農業用水)
 事業は、長らく父と行を共にした長子=忠政(タダマサ)に引き継がれた。
 2代=伊奈忠政は、「大坂夏の陣・冬の陣」における堀の埋立てなどで軍功を挙げ、また、「長柄川の堰止め工事」などに才能を発揮した。
 元和4(1618)年、伊奈忠政は34歳の若さで没した。
 事業は、忠次の次子=忠治に引き継がれた。伊奈忠治は、7千石の知行を得て、「赤山陣屋(川口市赤山)」を拠点に、『利根川 東遷』の主要部分を担った。
<図5.>伊奈氏屋敷跡(北足立郡伊奈町小室(埼玉県指定遺跡)
忠治の岡堰Ed 元和7(1621)年、『新川通 開削』と『赤堀川 初開削』によって、隅田川に注ぐ古利根川の勢いを削ぎ、江戸市街地や近郊の洪水被害を 緩和した。
 『新川通(シンカワドオリ) 開削』は、浅間川を、佐波(ザワ)(加須市)から栗橋(久喜市)まで新削し、利根川 本流を渡良瀬川に合流させた。

 『赤堀川(アカホリガワ) 初開削』は、それまで渡良瀬川の下流だった権現堂川(ゴンゲンドウガワ)分流点の栗橋から、江戸川 流頭点の関宿(セキヤ
ド)(野田市)まで、巾七間の流路を開削した。伊奈氏に因んで”備前堀”ともいう。                            <図6.>伊奈忠治が築いた岡堰(取手市 )
  寛永6(1629)年、「鬼怒川 大木丘陵 開削」によって、『鬼怒川・小貝川 分流』を行い、下妻付近で合流して暴れ川になっていた鬼怒川と小貝川を分離した。

 鬼怒川の開削水路は、常陸川合流点まで7キロ以上、大木丘陵部だけでも5キロほどあり、大工事であった。
 元の氾濫原=谷原では新田開発が進み、”谷原万石”とも称された。  寛永7(1630)年に『小貝川(コカイガワ) 付替え』を行った。
 これらによって、常陸川・広川への合流点を、開削工事の前に比べて30キロも上流に押し上げ、江戸の水運で重要な役割を果たすべく、常陸川の水量を増加させた。

 寛永12~18(1635~1641)年、『江戸川 開削』を行った。これは、平らな関東ローム台地を切り開き、関宿から金杉(野田市)までに新流路を開削し、太日川に合流した。
 寛永18(1641)年、『権現堂川 掘削・川幅拡張』によって、権現堂川は、栗橋から五霞(茨城県猿島郡)の南を流れ、関宿で江戸川に合流した。
 これにより、権現堂川から太日川を経て、江戸の内海(東京湾)に至る流路が、当時、利根川の本流となった。
利根川江戸川分岐点矢印付Ed
 <図7.>関宿城博物館の展望台から見る利根川・江戸川分岐点  【注3】
 旧赤堀川(利根川)部分、旧逆川(江戸川)部分、旧常陸川(利根川)部分  
【注3】 
『水を治め、水を利する―伊奈忠次・忠治父子の物語』(Araijuku Green Communnity 発行)の図を一部改変。
 
   承応2(1653)年、伊奈 忠治は62歳で没した。忠治が造成した福岡堰(関東三大堰の一つ)の北東、真瀬(つくば市)に、忠治の功績を称えた「伊奈神社」がある。
福岡関_伊那忠治Ed 事業は、長子=忠克(タダカツ)に引き継がれた。4代=伊奈忠克の代に、『利根川 東遷』事業は、一応の完成を見る。また忠克は、玉川兄弟と共に、江戸に水を供給する「玉川上水の施工に、水道奉行として加わった。 『赤堀川 増削・通水』は、二度の失敗を経て、伊奈 忠治の『赤堀川 初開削』から33年後の承応3(1654)年、赤堀川を三間増幅し、十間とした。この内、三間の深さを増して、通水した。これによって、利根川 本流は、常陸川に注ぐことになった。 常陸川は、当時、常陸国と下総国との境を
     <図8.>伊奈忠治が築いた福岡堰(つくばみらい市北山)の桜並木     東に流れ、香取海(カトリノウミ)<図1.を参照>に注いでいた。
 なお、寛文2(1662)年に着工し、四年後に完成した「新利根川」は、利根町 押付本田から霞ヶ浦への水運を目
 指したが、直線流路による速い流速と流域への洪水から、竣工の三年後には締切られ、用水となった。
 
 寛文5(1665)年、『逆川(サカガワ) 開削』によって、権現堂川と江戸川の分流点から、五霞の東を通り、境町(茨城県猿島郡)地先で、常陸川に合流した。これにより、関宿から江戸川への水運の大動脈が開かれた。 上記『赤堀川の増削・通水』によって利根川 本流が常陸川に注ぎ、その後、「利根川・渡良瀬川、および太日川・江戸川の流路変更」によって『利根川東遷と流域変更』がほぼ完成し、「利根水運」河川体系が形成された。伊奈 忠次による1594年の工事開始から72年目であった。

 (上)文責 : 椿 敬一郎 (補筆と画像提供 : HP&ブログの担当スタッフ in 銚子ジオパーク推進市民の会)
 

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